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	<title>GSDy Letter Premium</title>
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	<description>GROUNDSCAPE DESIGN youth の議論の場</description>
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		<title>インフラの持つヒューマンスケール 時間の流れを感じる場所</title>
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		<pubDate>Sat, 28 Apr 2012 00:55:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[12]]></category>

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		<description><![CDATA[はじめに
　みなさんにとって大事な場所とはどんなところだろうか。設計やまちづくりに関わる上で力の源になるような、原点みたいな場所は、あるだろうか。
　建築学科へ入って、ランドスケープの研究室へ入って、風景を造るオブジェク [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>はじめに</h3>
<p>　みなさんにとって大事な場所とはどんなところだろうか。設計やまちづくりに関わる上で力の源になるような、原点みたいな場所は、あるだろうか。</p>
<p>　建築学科へ入って、ランドスケープの研究室へ入って、風景を造るオブジェクトとして土木に興味を持ってGSDyに入り半年ちょっと。まだまだわからないことだらけだが、何でも書いていいとのことなので、自分の核をつくっている大事な建築についてお話します。</p>
<h3>「好きな建築は？」</h3>
<p>そう聞かれると必ず答えるものがある。琵琶湖から京都へ水を引く疏水の一部、「南禅寺水路閣」である。水路を通すための橋なので、建築の括りに入れると語弊があるかも知れないが、建築を志してからの私にとっては、大きなことに悩んだり迷ったりしたら会いに行きたくなる、原点のような大事な建築である。<br />
　水路閣といえば、ローマ時代さながらのレンガ造アーチ橋が古いお寺の境内にででんと構えているアレである。よく火曜サスペンス劇場とかで事件現場にされちゃってるアレ。明治期の建設当初は西欧風のデザインに非難轟々だったようだが、今では立派に観光名所である。<br />
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2012/04/fujii_1.jpg" alt="初夏の水路閣と観光客（写真：筆者撮影）" title="初夏の水路閣と観光客（写真：筆者撮影）" width="300" height="" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">初夏の水路閣と観光客（写真：筆者撮影）</p></div></p>
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2012/04/fujii_2.jpg" alt="冬にも観光客がたくさん来る。アーチを覗くお約束の構図。（写真：筆者撮影）" title="冬にも観光客がたくさん来る。アーチを覗くお約束の構図。（写真：筆者撮影）" width="300" height="" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">冬にも観光客がたくさん来る。アーチを覗くお約束の構図。（写真：筆者撮影）</p></div>
<p>　そもそも、琵琶湖疏水は明治維新時の東京遷都によって衰退した京都を復興するために行われた明治中期のビッグプロジェクトで、琵琶湖からの水運を開くことで京都市内の安定した水源を供給するとともに、水力発電を導入して産業振興の起爆剤にするというもの。水路閣は疏水分線として計画された水路の一部で、東山の景観を壊さないように南禅寺境内を通ることになった。…というのが一般的に言われている概要だが、景観に配慮しながら、なんでお寺に赤レンガのアーチ橋なのだろう？</p>
<h3>デザイナーの熱意</h3>
<p>デザイナーは、当時工部大学校(現東京大学工学部)を卒業したばかりの田邊朔郎。卒論で疏水に関する理論と設計をまとめた彼は、論文の完成度の高さと熱意を買われてこの大役に抜擢された。彼にはある美学があった。「建築物は、すべからく美しくなければならない。」この美学こそ、寺にレンガのアーチ橋が出現することとなった所以だろうと思う。<br />
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2012/04/fujii_3.jpg" alt="蹴上に残る田邊朔郎像。若い！（写真：京都市水道局）" title="蹴上に残る田邊朔郎像。若い！（写真：京都市水道局）" width="300" height="" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">蹴上に残る田邊朔郎像。若い！（写真：京都市水道局）</p></div></p>
<p>　水路閣の敷地となった南禅寺は、正応4年(1291年)亀山法皇によって開山された臨済宗南禅寺派大本山の寺院で、かなり平たく言えば日本全国の禅寺のボスみたいなお寺。境内そのものが国の史跡に指定されているほか、国宝や重文指定の文化財があり、修学旅行でもおなじみのお寺ではないだろうか。</p>
<p>　そんな南禅寺を水道橋が通るとなれば、構造だけでなくデザインに気が使われて然り。当時は鉄筋コンクリート造があまり実用されていなかった事もあってレンガ造を採用しているのだろうが、もともとはただの石組にする予定だったところを田邊技師がわざわざレンガ造へ変更している。それは美しさを求めているからだ。寺という敷地の持つ場所性の強さに委縮することなく、寺だから和風なものという安直な発想でもなく、南禅寺という場所に敬意を払って精緻なデザインで歴史に対峙した。いいものにはいいもので対応する、というか。すごくシンプルで、まっすぐに敷地に向き合った理由で、当時最先端かつ最高のデザインをそこに持ってきたんじゃないかと思う。<br />
　とは言え、やはり工事は困難を極めたらしく、若い田邊技師にストライキするベテラン職人あり、境内に西欧風の橋などけしからんといった寺の反対あり、という具合だったらしいので、アーチ橋を実現したところにデザインに対する相当の熱意を感じずにはいられない。</p>
<p>　だからと言って、田邊技師はデザイン一辺倒だったわけではもちろんない。耐久性だってすごいのである。2008年、水路閣の一部に長さ4メートルの亀裂が見つかり、崩壊の恐れがあるとして改修を視野に入れた調査が行われた。以下は京都新聞からの引用。「史跡範囲外の一部をくりぬき調べたところ、れんがなどで組まれた構造物に関して日本建築学会が示す設計基準の３倍近い圧縮強度を備えていた。斜め方向のひずみに対する耐久性も水路閣と同年代に建てられたれんが造りの建物の２倍以上あった。」(2011年07月28日付京都新聞)。このデータを基に、阪神大震災(＝M7.3＝)レベルの地震が起こっても、ひび割れやレンガの部分破損はあるが倒壊可能性は低い、とされる。また、竣工から123年になる現在も橋の上には京都市民が使う水が流れ、インフラ施設として現役であることがその強度の証だろう。<br />
　水路閣を思うたび、「用・強・美」が揃うってこういう事なのかな、と思う。技術とデザインのバランスは、すごく難しいけどすごく大事だと思う。</p>
<h3>時間の流れと様々なアクティビティを受け止める</h3>
<p>水路閣の魅力は、裏話の熱さや耐久性だけではない。水路閣の持つ時間の流れ、来訪者の過ごし方の自由さこそ、最大の魅力なのだ。<br />
大きなアーチの脚に垂直に交差する小さなアーチ。連続する小アーチの窓に身を乗り出して、観光客は写真を撮る。橋上部を水路に沿ってインクラインへ抜ける散策も人気だ。しかし水路閣を好きなのは観光客だけではない。人もまばらな早朝、散歩に来る老夫婦がいる。観光客が帰った夕暮れ時、小アーチにもたれて読書をする青年や、楽器の練習をしにやってくる女の子がいる。様々な人々の様々な過ごし方を、どっしりとした構えで受けとめているのだ。123年もの間、ずーっと。<br />
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2012/04/fujii_4.jpg" alt="雪解けの水路閣上部。実際に水が流れる水路沿いを散策できる。（写真：筆者撮影）" title="雪解けの水路閣上部。実際に水が流れる水路沿いを散策できる。（写真：筆者撮影）" width="300" height="" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">雪解けの水路閣上部。実際に水が流れる水路沿いを散策できる。（写真：筆者撮影）</p></div><br />
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2012/04/fujii_5.jpg" alt="春。水路沿いに歩いていくと、桜のきれいなインクライン跡へと続く。（写真：京都市水道局）" title="春。水路沿いに歩いていくと、桜のきれいなインクライン跡へと続く。（写真：京都市水道局）" width="300" height="" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">春。水路沿いに歩いていくと、桜のきれいなインクライン跡へと続く。（写真：京都市水道局）</p></div></p>
<p>　竣工当時は鮮やかすぎて反感を買っただろう赤レンガは、時を経て穏やかに赤茶けた。赤レンガと美しく対比していただろう白い目地は、今では苔むしたり草が生えたりしてくすんだ緑色になった。アーチ内側も風雨にさらされて黒や白の水跡がつき、長年その場になければ出し得ない色の混ざり方をみせている。<br />
　この、「これまでも、これからも、ずっとここにいる。」と静かに主張している感じが、すごく好きだ。この見事な経年変化と空間の豊かさを見越してこの素材、この形なのだというなら、田邊技師は本当に素晴らしいデザイナーだと心から尊敬する。<br />
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2012/04/fujii_6.jpg" alt="目地から草が生え、場所に馴染んでいる（写真：筆者撮影）" title="目地から草が生え、場所に馴染んでいる（写真：筆者撮影）" width="300" height="" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">目地から草が生え、場所に馴染んでいる（写真：筆者撮影）</p></div></p>
<p>　日常を支えるために生まれた水路閣は、日常生活では目にすることのない生活用水の道のりを可視化し、その道のりを形作る橋が人々の憩いの場となっている。ローマの水道橋に比べたらとっても小ぶりだけれど、アーチ橋の足元に腰かけたり水が流れる橋の上を歩いたりできる、このスケール感ならではの空間ってとても非日常的でわくわくしないだろうか。非日常なわくわく空間を、散歩したり読書の場所にしたり日常使いする人々。ここに、人々に寄り添うヒューマンスケールなインフラの在り方があると思う。<br />
　私は来春から、土木設計の会社で働く。迷ったり悩んだりしたらまたここへ帰ってきて、本当に必要とされるものを、100年先も愛してもらえるような強さと美しさで、その場所に寄り添うようなデザインをしていきたい。</p>
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		<title>共有されるデザイン思想とは　KL2サロン</title>
		<link>http://www.gsdy.org/letterpremium/12kl2</link>
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		<pubDate>Sat, 28 Apr 2012 00:55:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[12]]></category>
		<category><![CDATA[イベント]]></category>

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		<description><![CDATA[
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１２月５日に熊 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<style>
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<p>１２月５日に熊本でベルギーの構造事務所であるNey&#038;Partners勤務の渡邉竜一氏と九州の学生との座談会を開催した。<br />
　座談会は熊本市の中心街から少し離れた、上通り商店街の中、『まちなか工房』にて行われた。<br />
<BR><br />
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2012/04/2_1.jpg" alt="ポスター" title="ポスター" width="300" height="" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">ポスター</p></div></p>
<p><BR></p>
<h3>Ney＆Partnersの設計プロセスの紹介</h3>
<p>　はじめに渡邉竜一氏がこれまでNey&#038;Partners事務所で携わってきたコンペの中から欧州事例３つを用いて、構造デザインにおける新しい設計プロセスについての基調講演を頂いた。<br />
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2012/04/2_2.jpg" alt="講演の様子" title="講演の様子" width="300" height="" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">講演の様子</p></div><br />
　１つ目の事例はオランダのズウォレでの歩道橋のコンペティションである。<br />
　ここでのコンペティションにおける要求事項として、１)都市運河への配慮、２)中心市街地及び対岸からの見え方、３)場所性、４)ディティール、５)その他が挙げられていた。それらから、ズウォレ市が求める方向性を読み取り、１)歴史的景観の中で橋の位置づけが明確なストーリーを持つこと、２)軽やかで視覚的障害とならない橋であること、３)両護岸への負荷が少ないこと、調和のとれた計画をすること等の設計方針を決定していた。そして与条件を包括し、意匠面、技術面の検討を行う。歩道橋の形は、水平力をバランスさせた三次元的なS字の線形とし、またそこから生まれるねじれを解消するため二重のアーチ橋の提案をしていた。また、施工性、経済性に配慮したスパンの検討を同時に行っている。<br />
　形態の検討が決まると、細かい部分をモデルを使って検討し、同時に構造チームはFEM解析(有限要素法による構造解析)という力学の検討を行い、共に事務所内でやり取りし“かたち”を決定、そして平面図、立面図、縦断図、横断図を生成していくという。<br />
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2012/04/2_3.jpg" alt="事例紹介をする渡邉竜一氏" title="事例紹介をする渡邉竜一氏" width="300" height="" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">事例紹介をする渡邉竜一氏</p></div><br />
　2つ目の事例はオランダのアムステルダムでの歩道橋コンペティションである。<br />
　意匠面と技術面で別々に要求事項が与えられており、シンプルでひとつながりのシークエンスを持つこと、柱で支える構造であること、設備も一体的にデザインすること、荷重条件等が挙げられ、トータルにデザインすることが求められていた。提案方法としてシンプルで明確なコンセプトを基に、様々な要素を統合的にデザインされた橋をということを念頭に置いて行った。また、アムステルダムは歴史的な建造物と現代建築が共生している街である。今回のコンペティションの歩道橋が架かる場所の周辺には、裁判所や複合施設などの人工物が今後立ち上がる予定があり、歩道橋はそこに渡るための橋である。これらの場所の歴史を踏まえつつ人工島の新しい価値を創出するような方向性を考えた。<br />
　橋のかかる位置より条件としては、橋長100ｍ弱、幅員3.6ｍ、開閉部8.5ｍを持ち、一部可動する部分を持つ歩道橋となる。１つ目の事例と同様に要項内で求められているものをくみ取り、具体的な検討に入る。場所性から素材はスティールを使い、メンテナンスを考えてディティールはそぎ落としてシンプルにすることとした。それから実際にかたちを探す。基本的にまずスパン割を開閉部とのバランスを考えながら決め、1つをモジュールにして橋を構成していく。モーメント図を見ながら等スパンであることを踏まえ、部材のおおよその大きさを決め、海に近いことから鳥の羽ばたくイメージを意識し、断面のかたちを立ち上げた。<br />
　３つ目の事例はベルギーのブルージュでSmedenpoort（オランダ語で職人・鍛冶屋の門）付近に新しく建設する歩道橋のコンペティションである。<br />
　対象地が中世の歴史的建造物の近くであるため、歴史的建造物保護部門から4つの要求事項が挙げられていた。１)歴史的建造物から８０ｃｍ以上離れた場所で建設を行うこと、２)できる軽く限り透明な歩道橋３)歴史的な配慮、既存の建造物と橋の視点とが複合的であること、４)高い意匠性を持つこと、である。また、自動車と自転車と歩行者との動線が複雑に交錯しているという問題を解消させる機能への考慮も必要とされていた。そしてここでは「設計者の見積もり」、「意匠性」といった評価軸も設定されていた。<br />
　形態の検討は歴史の経緯から包み込むようなかたちとし、歩道橋と既存建造物までは距離を確保して歩行者の見通しが利く状態としていた。また、手すりをLEDでライティングすることによって、夜間時に既存建造物が浮かび上がる仕組みとし、同時に近隣の町工場で作れるような小さな部材から作り上げることができる歩道橋を創出するという方向性が決定した。次に、手すりのパターンの構造解析を行った結果、非常に軽やかで視覚的にも障害とならない手すりのある歩道橋が完成した。</p>
<h3>公共性を生むNey&#038;Partnersの設計手法</h3>
<p>　次に従来の設計手法とNey&#038;Partnersの設計手法とがどう違ってきているのかについて講演していただいた。<br />
　従来の設計手法では土木も建築も最初にかたちの形式を決め、その中で部材の断面の解析や三次元構造解析を行う、というプロセスが良く行われる。はたしてそれが本当に理想的なかたちの検討方法なのか。既存の構造形式をただ当てはめると、条件の関係性が見えづらく無理が発生し、また、意匠が先行すると共有が難しくなる。<br />
　一方Ney&#038;Partnersでは、前提条件や土地の経緯、環境等を複合した方向性を、様々な分野の人達や住民とで共有・議論し、目的を果たす条件の設定・重みづけを始めに行い、構造力学だけでなく全ての条件を含み込んだ最適解を、力学をツールに探していく。あらゆる側面の判断を統合したバランスの中での最適解を導き出すことにチームで何度も議論を重ねていくという。特に『力学的な機能を持つこと＝安全性』、『実現可能であること＝現実性（施工性）』、『無駄のないこと＝経済性』、『世代を超えて使い続けられること＝耐久性、環境性』、『記憶、歴史を紡いでいくこと＝意匠性』を含みこんで、お互いに考慮して設計していくことで、時代の中での『共有可能＝公共性』が生まれるのではないかという。ごく当たり前のことではあるが、デザインの基本に立ち戻って議論を重ねていくと多くの人と共有できる公共のための構造物、デザインが獲得できるのではないか、という。<br />
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2012/04/2_4.jpg" alt="Ney&#038;Partnersの設計手法の説明をする渡邉竜一氏" title="Ney&#038;Partnersの設計手法の説明をする渡邉竜一氏" width="300" height="" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">Ney&#038;Partnersの設計手法の説明をする渡邉竜一氏</p></div></p>
<h3>講演会を終えて</h3>
<p>　今回の講演から、Ney&#038;Partnersではかたちの検討に入る前の、要求事項から設計方針を決定する過程にかなりの議論を重ねており、その議論が公共性を生み出す構造物をつくるための重要な基盤であることが理解できた。また、力学をベースにした形態探索の工程が具体的に、かつ、力学が“かたち”として起き上がっていく様子が図や写真によって、非常に詳細に感じられた。3つ目の事例では複雑な条件が求められる歴史的建造物への配慮をしつつ、現状抱える問題を打破する対策、手すりの検討や夜間の照明計画など詳細に広範囲な検討がされており、かたちに組み込まれる条件が様々であることが理解された。<br />
　Ney&#038;Partnersが行ってきた事例から、あらゆる条件を踏まえたうえで、あくまで力学をベースにかたちの大枠を検討し、構造と意匠の両側面から“かたち”の洗練を行っていくと、合理的なかたちの最適解、個々の構造物に合う固有解の提案が可能なのではないかと考えさせられた。その過程を踏まえたうえで生み出された構造物は、まさに『機能美』と呼ぶにふさわしい構造物なのではないか。<br />
　また、たとえ力学をベースに最適なかたちを決めていくと言っても、実際に力学のみで出てきたかたちが全て住民や利用者に受け入れられるわけではないだろう。その中でも、Ney&#038;Partnersがあらゆる合意形成を生み出すことのできた過程には、複雑に交錯する条件のどこに最も重きを置き、余条件をどうバランスさせるかの采配が優れているからこそでき得るのだろう。</p>
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		</item>
		<item>
		<title>大槌町安渡地区の市街地復興計画  コミュニティ再建のための日常生活空間</title>
		<link>http://www.gsdy.org/letterpremium/12top</link>
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		<pubDate>Sat, 28 Apr 2012 00:54:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[12]]></category>
		<category><![CDATA[巻頭]]></category>

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		<description><![CDATA[　もうすぐ一年が経つ。日本中を文字通り震撼させたあの震災から、である。　いったいどれだけ多くの人々が、出身地方を問わず、国の内外を問わず、この出来事によって触発されただろうか。
　僕自身思えばこの一年間、この話題に四六時 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　もうすぐ一年が経つ。日本中を文字通り震撼させたあの震災から、である。　いったいどれだけ多くの人々が、出身地方を問わず、国の内外を問わず、この出来事によって触発されただろうか。<br />
　僕自身思えばこの一年間、この話題に四六時中縛られていたような気がする。この時局に学生という立場で居合わせたことを、幸いと言えばよいのかどうかわからない。しかし、僕はこう考えている。人間が何千年もの間この破壊的な自然とうまく付き合いながら、土の上のあらゆる場所に営々と住み続けてきた意味とは何なのかを、真剣に考えるチャンスをもらったのだと。<br />
　ちょうど中井先生が大槌町の震災復興にご尽力されている関係で、被災地の一集落における復興計画をテーマに研究をすることができた。ここでは、修士設計として提出した大槌町安渡（アンド）地区の市街地復興案の紹介に紙面を割いていただけることになった。ぜひご一読して批評・コメントをいただければ幸いである。</p>
<p><H3>問題意識</H3><br />
　前回の巻頭を担当された松宮さんは自身の関わった吉里吉里、宮古の事例を挙げて、拙速な解答より適切な設問を設定することの大切さ、人と人とのコミュニティデザインの必要性を訴えた。それからさらに半年が過ぎ、被災各地で実際に復興計画が出揃ってきた段階で、ここでもう一度二つのキーワードを基に問い直すことをしよう。<br />
　近代以降の都市計画は、平均化された人間に対してなるべく機械的に均等に土地を割り与え、道路ネットワークや施設配置を含めて最適化するというプロセスであった。しかし、三陸沿岸で今回被害を受けた地域は、必然的に地形の大きな制約を受けながら、農林漁業を主産業としてきた集落の寄せ集めである。そのためこの最適化という以前に、不自由や不平等を受け入れながらその土地に暮らすということがここでは非常に大きな意味を持つ。しかも、それは市町村の単位ではなくあくまで地形に起因する集落の単位である。この集落のまとまりを復興計画にいかに描くかということがひとつ大きな設問になる。<br />
　また、過去の災害からの復興事例において、その過程で以前のコミュニティが崩壊してしまうという事例が数多くある。例えば北海道南西沖地震（1993）での被災地奥尻町での若者流出や漁業衰退問題、阪神淡路大震災（1995）の復興住宅における高齢者の孤独死問題は記憶に新しい。これはコミュニティがハード整備次第でいかに簡単に壊され、かつ新たに築くのが困難かということを端的に物語っている。三陸沿岸の被災地では集落ごとのコミュニティが今も色濃く残っており、デザインによってそのつながりをどう維持するのかが、二つ目の設問である。</p>
<p><H3>大槌町安渡地区</H3><br />
　大槌町の人口は被災前で約１万５千人おり、その６割が沿岸部の町方・安渡・赤浜・吉里吉里・浪板といった集落に集中している。しかし、1980年ごろから減少を始めた人口は2035年には１万人を割ると推計されており、高齢化率も被災前で32％であった。また、江戸時代からの主産業である漁業も衰退しており、漁業者の代わりに水産加工業や冷蔵・冷凍業の従業者割合が増えていた。</p>
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><a href=cms/wp-content/uploads/2012/04/1_1.jpg><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2012/04/1_1.jpg" alt="安渡地区全体の被災状況（等高線は10m刻み）" title="安渡地区全体の被災状況（等高線は10m刻み）" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-290" /></A><p class="wp-caption-text">安渡地区全体の被災状況（等高線は10m刻み）（クリックで拡大）</p></div>
<p>　安渡地区はそのうち2000人弱の人口規模を持ち、高齢化率も36％とかなり進んでいる。この地区の特徴はとりわけ厳しい地形条件にあり、他の集落と比べて津波の被害をまともに受けるのに加えて、後背に急峻な山が迫り逃げ場も限られる（上図参照）。安渡地区は60年代以降に県道辺りから海側を大規模に埋め立てて市街地を拡大してきたが、その後80年代には人口が減少に転じて集落の空洞化が進んでいた。そこを今回の津波が襲い、犠牲者は人口の１割超、全壊家屋は84％にも上った（赤が残存）。</p>
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><a href=cms/wp-content/uploads/2012/04/1_2.jpg><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2012/04/1_2.jpg" alt="被災前後の安渡地区（『大槌夢幻』より）" title="被災前後の安渡地区（『大槌夢幻』より）" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-290" /></A><p class="wp-caption-text">被災前後の安渡地区（『大槌夢幻』より）（クリックで拡大）</p></div>
<p>　しかしながら、安渡地区では集落内の結束が強い。例えば虎舞・大神楽・鹿踊などの伝統芸能、それらを道中や船上で披露する安渡祭りがあり、町内会では避難訓練や清掃活動が盛んに行われ、小学生行きつけの駄菓子屋や安渡公園、ゲートボールを楽しめる漁太公園など人をつなぐ場所が残されていた。このようなコミュニティのルーツは人と人とのつながりだけではなく、自然と深い関わりの中にあった。漁業者と海や川との関わりはもちろん、その合間に山を拓いて耕地を耕したり、海辺の砂浜で海水浴や潮干狩りを楽しんだりすることは日常生活そのものであったし、一方で津波などの災害時にはより広域のコミュニティを結束させて事に当たっていた。<br />
　このコミュニティをいかに将来に残すかが今回の提案の鍵となると考えた。</p>
<p><H3>コンセプト</H3><br />
　メインコンセプトは「まちの従前コミュニティを維持したまま、交流の密度を上げるデザイン」とした。</p>
<p>　更にこれを２段階に分けて、まち全体の骨格を作る段階をA、そのまちの中に交流の密度を上げる日常生活空間を生み出す段階をBとした。<br />
A：「従前集落に接続して可能な限り集約したまちにする」<br />
B：「まちのなかに「人の集まる場所」や「よく通る道」をつくる」</p>
<p>Aの段階では今後見込まれる人口減少に備えて集落空間の物理的な密度を上げ、Bの段階でその中にコモンスペースを適切に散りばめると同時に、非常時の拠点や避難路を兼ねることを目指した。</p>
<p><H3>設計・計画とやれたこと</H3><br />
　ここで少し先回りをして、今回の提案で何ができたかを簡便のために図で整理したい。個人の日常生活空間は場を共有する規模によって、自分の寝室から集落、或いはそれを超えて重層的に広がっている。このそれぞれの空間に対する計画・設計の概念は下図のようにわけられると考える。</p>
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><a href=cms/wp-content/uploads/2012/04/1_3.jpg><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2012/04/1_3.jpg" alt="それぞれの空間に対する計画・設計の概念" title="それぞれの空間に対する計画・設計の概念" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-290" /></A><p class="wp-caption-text">それぞれの空間に対する計画・設計の概念（クリックで拡大）</p></div>
<p>　本来こうした空間全体のデザインは一体的かつ双方からアプローチをして完成度を高めていく作業が必要不可欠であるが、今回提案できた部分は図に示すように計画側に重心が寄っている。これは津波できれいに流されてしまったまちを再構成するには防災の観点からも一定のルール作りが先決であり、対象範囲が広かったために設計側から案を詰めるに至らなかったことによる。しかし、この偏りを軽減するためにできるだけ設計側の観点を加味してスタディを重ねたつもりである。<br />
　以上のようなプロセスで計画・設計した提案の全体像を次に示す。</p>
<p><H3>提案の全体像</H3><br />
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><a href=cms/wp-content/uploads/2012/04/1_4.jpg><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2012/04/1_4.jpg" alt="安渡地区市街地復興案" title="安渡地区市街地復興案" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-290" /></A><p class="wp-caption-text">安渡地区市街地復興案（クリックで拡大）</p></div></p>
<p>　色を濃くした範囲が居住域でそのうち緑の部分は急傾斜地（崖）である。濃い茶色が盛土、薄い茶色が切土の表現である。ここに避難路を兼ねる車道（オレンジ）と歩行者道（赤）のネットワークをつくりながら、谷筋の居住地と山手の居住地の間を一つのまちとしていかにつなぐかということを考えた。<br />
　残存住宅に災害公営住宅と再建住宅を合わせて524戸を供給できるようにした。これは被災前の750世帯のうち少なくとも7割は住むことができ、そのうち3割は公営住宅で賄う計算である。公営住宅は戸建て・二戸一と一部三階建てを併用して、個別の延床面積は40㎡（平屋）と60㎡（二層）からなる。居住地の標高は高低差を抑えるために最大で44mとし、最大の切土高さは10mである。堤防の高さと海側の盛土量については、L1クラスの津波に対応できるように基本計画の数値を採用している。<br />
　但し、この図は必ずしも完成形と考えないでいただきたい。というのは、被災後の人口の流出・流入によってその大きさは調整が必要であるし、また、将来の人口減少は目に見えており、それに伴ってまちの大きさは変わるためである。ここではあくまでその一案として示し、山手側に公営住宅を配置して住戸数の調整を可能にしている。<br />
　以下に、二段階のコンセプトに従って解説を加えたいと思う。</p>
<p><H3>A：集約したまちにする</H3><br />
　まず、まち全体の骨格をどのように決定したかについて説明する。<br />
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><a href=cms/wp-content/uploads/2012/04/1_5.jpg><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2012/04/1_5.jpg" alt="平面図・断面図のダイヤグラム" title="平面図・断面図のダイヤグラム" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-290" /></A><p class="wp-caption-text">平面図・断面図のダイヤグラム（クリックで拡大）</p></div><br />
　まちを全体として低地（薄い紫）から山際（濃い紫）に寄せた。その際に被災を免れた安渡小学校（廃校後、公共施設として転用予定）、大槌稲荷神社、大徳院を含むように旧道と国道45号線の間を居住域とし、就寝時などに地震が発生しても近くの高台にすぐに逃げられるようにした。同時に、既存の林道を延長して山沿いに国道まで抜けられる動線を確保し、林道まで車で抜けられる道を複数用意して緊急時に備えられるようにした。また、旧道沿いをL1対応の基準まで盛土し、山側を少しずつ切土しながら全体が一つのまとまりとなるように計画した。以上の手法により低地に低密度で分散していたまちを、残存住戸に接続し、かつコンパクトなまちに再編成した。</p>
<p><H3>B：まちのなかのコモンスペース</H3><br />
　次に交流の密度を上げるためのコモンスペースをいかにつくるかを、ダイヤグラムを用いて示す。ここでは便宜上3つの段階に分けて説明をする。<br />
1)ネットワークレベル<br />
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><a href=cms/wp-content/uploads/2012/04/1_6.jpg><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2012/04/1_6.jpg" alt="" title="" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-290" /></A><p class="wp-caption-text">図6（クリックで拡大）</p></div><br />
旧道を基準として低地から高地までをつなぐように、交差点・分岐点などの要所に防災広場を配置する。更にそれぞれの広場から高台の拠点へのアクセスを確保するために、車道による避難路とは別に歩行者道・階段を設けた。この際に単線のネットワークにならないように経路を重複させ、その登り口下り口には小スペースを設けた。<br />
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><a href=cms/wp-content/uploads/2012/04/1_7.jpg><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2012/04/1_7.jpg" alt="" title="" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-290" /></A><p class="wp-caption-text">図7（クリックで拡大）</p></div><br />
2)地形別レベル<br />
次に地形ごとに分けて、地形改変、住戸の配置、アクセス経路を含めた手法を比較しながら説明する。<br />
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><a href=cms/wp-content/uploads/2012/04/1_8.jpg><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2012/04/1_8.jpg" alt="" title="" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-290" /></A><p class="wp-caption-text">図8（クリックで拡大）</p></div><br />
　例えばaのような谷地形では効率よく住戸を並べると同時に、引き込み道路から両側に出入口をとり、背面同士を裏庭として共有する。これにより必然的に交流の機会が増え、住民は表と裏で付き合い方を変えることができる。また、車道と反対側には歩行者道を設けることで、自動車の通らない散歩道・ジョギングコースとなる。<br />
　bとcはどちらも突き出した山だが、形状の違いによって住戸配置及び道路の通し方が違ってくる。bでは距離を適度に置いて小広場を配するのに対し、cでは真ん中に住戸に囲まれた広めのスペースを確保する。また防災上の観点からいえば、bは懐が深いため先端へのアクセスがより重要となり、cでは緊急時の拠点となることを想定して多方面からのアクセスを重視すべきである。<br />
　dのようなケースでは、三日月形に切り取った敷地は眺望、陽当たりが良好であり、条件の良い場所を住民に開放することが望ましい。更に切土して作る宅地の高さを土量の増減と関わりなく変えられるので、下の市街地に接続したいときは低く、見晴らしを良くしたいときは高くできる。<br />
 eのように崖の高低差が大きい場合には、その間に中間領域を設けることが重要である。そのような場所は上下の双方からアクセスしやすいため、上・中・下の住民をつなぐ助けとなるに違いない。<br />
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><a href=cms/wp-content/uploads/2012/04/1_9.jpg><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2012/04/1_9.jpg" alt="" title="" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-290" /></A><p class="wp-caption-text">図9（クリックで拡大）</p></div><br />
3)宅地同士の関係レベル<br />
　最後に近接し合う宅地同士の関係について、住戸の配置、アクセス方法を含めて次の二つの手法を提案する。<br />
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><a href=cms/wp-content/uploads/2012/04/1_10.jpg><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2012/04/1_10.jpg" alt="" title="" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-290" /></A><p class="wp-caption-text">図10（クリックで拡大）</p></div><br />
　aのように崖の上と下に宅地が隣り合う場合には、道路で分断することなく住戸を互いに向かい合わせる。そしてその間を広めの階段でつなぎ、その昇り口降り口に小さなスペースをとることにより、交流の機会を生み出す。ｍた、南向きの斜面であれば共同の畑としても活用できる。<br />
　一方、bのように既存の宅地に新設の宅地が隣り合う場合には、とりわけ大きな配慮が必要であると考える。それぞれが別の宅地として分離してしまわないよう既存道路の脇からアクセスをとり、既存住戸と新設住戸の両住民が一つのスペースを共有できるように配置する。外から全く新しい住民がやってくるという場合ではないにせよ、一つの集落としての一体感を生み出すのに必須の手法であると考えられる。</p>
<p><H3>意識したこと</H3><br />
案を練る上で意識したことはとにかく現況を深く知るということである。<br />
<H3>返ってくる気持ち</H3><br />
　昨夏からのこの半年間に大槌町には四度訪れ、対象地区を歩きまわり、関係者にヒアリングをし、住民参加の復興協議会を聞いてはまた歩きして、このまちの行く末を本気で思い描いてきた。一方で住民の生の声を聞いたり、昔のまちの写真を見せてもらったり、それらを飲み込む津波の映像を見たりしながら、一つのことを考え続けることがどれほど辛いかということを噛みしめた。阪神・淡路大震災と新潟県中越地震における復興事例調査に訪れた際も、「復興」を切に求めているのは現地の住民であり、被災後に初めて訪れた外部の人間ができることなど知れているということも思い知らされた。特に今回扱ったようなコミュニティの問題に関しては。それでも尚、そこで立ちすくまずに走り続ける勇気、モチベーションを支えてくれたのは「返ってくる気持ち」だと思っている。<br />
　デザインを志す全ての人の原点であると同時に、最も忘れがちなこと。それは誰かに喜んでもらうために考え、つくるということだ。<br />
もちろん指導してくれた先生方や手伝ってくれた後輩らに支えられる部分は大きく、感謝の念に堪えない。しかし、真っ先にこのことを伝えたいのは、人生に未熟な一学生の調査に時間を割いて応えてくださった現地の方々、東北の被災地を我がことのように心配している過去の被災地の方々、そして被災地でいまも何とか生活を再建しようと歯を食いしばり踏ん張っている方々だ。この人たちの顔を思い浮かべられなければ、途中どこかでへたり込んでいたに違いない。<br />
　目に見える見えないは別にして、その返ってくる気持ちというものが本来のデザインの原点であり目的であり結果なのだと思う。一旦仕事を始めれば、眼前の作業に追われて息つく暇もなく、こうしたきれいごとは押入れの奥に埋もれてしまうかもしれない。しかし、いつか壁にぶち当たった日には、思い返して心の糧にしたい。</p>
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		<title>社会人学生1対1対談</title>
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		<pubDate>Tue, 27 Dec 2011 14:12:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[11]]></category>
		<category><![CDATA[対談]]></category>

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11/29(火 [...]]]></description>
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<p>11/29(火) 18:30～　八千代エンジニヤリング本店</p>
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2011/11/taidan.jpg" alt="対談の様子（撮影：内藤歩）" title="対談の様子（撮影：内藤歩）" width="300" height="" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">対談の様子（撮影：内藤歩）</p></div>
<p>今回は、八千代エンジニヤリングの上田真紀子さんからお話を伺いました。</p>
<p>-まず自己紹介からお願いします。</p>
<p><strong class="orange">原田</strong>千葉大学園芸学部4年の原田恵です。私がいるところは緑地環境学科で、造園領域が専門の学科です。所属している研究室は地域計画学というところです。研究室の先生がまちづくりのプロジェクトと子どもの遊び場をメインにやってらっしゃる先生で、私はそのプロジェクトに学生として参加しています。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>私は早稲田大学で、佐々木葉先生の研究室を出ました。入ったときは土木工学科でしたが、学科名が変わり社会環境工学科になりました。修士まで景観の研究をして、コンサルタントに就職し、今5年目になります。会社に入ってからは地域計画、社会計画をやっている部署にいます。私は元々、大学では都市論に興味がありました。早稲田の理工学部には文系と理系の中間的な「複合領域」というコースがあり、そこに進もうと思っていました。4年生になり、付こうと思っていた先生が京大に赴任してしまったので、一番近い研究ができそうな景観・デザイン研究室に入りました。<br />
会社に入ってからは、景観の業務はほとんどやっていません。今までで一番多いのは自治体から受注するバリアフリー関係の業務です。法律の枠組みにしたがって、地域のバリアフリーの構想を作成します。業務の中では、障害のある方々とワークショップをしてバリアフリーの課題を抽出し、道路管理者や鉄道事業者などの事業者さんに対策を検討していただき、事業計画を作っていきます。</p>
<h3>地域にコンサルタントが入る意味</h3>
<p><strong class="green">上田</strong>ここ1、2年は新しい分野で、観光・交流関係の業務があります。これから切り開きたいと思う分野です。都市と地方がもっと連携して、お互いに支え合っていきましょうという考え方です。現在は都市側の自治体から業務を受注し、さまざまな連携を提案しています。例えば、バスで都市の人を地方に連れて行って、地方でしかできない経験をしてもらったり、逆に地方の産品を都市で売るアンテナショップを作ったりという取り組みです。業務では、都市と地方の間に立って調整をする立場で、これらの活動を通じた交流の促進を支援しています。</p>
<p><strong class="orange">原田</strong>私は今、卒業論文を書いている途中で結構やばいんですけど。論文の内容は、対象地のまちづくり活動の組織がたくさんある中で、連携が取れていないっていうのを感じていて、それらのネットワークを形成したらいいんじゃないかという内容なんです。その場所が群馬県の桐生市で、そこも都市と地方の観光交流に力を入れようとしてやっているところです。銀座にアンテナショップを出したりしているんですけど、中々、呼ぶのとリピーターとして来てもらうのが難しいと観光交流課の方がおっしゃっていました。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>よくわかります。</p>
<p><strong class="orange">原田</strong>企画をしてそれに来る方は多いと思うんですけど、そこからさらに自分達で行ってもらうのにどう繋げるかが難しいのかなと思いながら聞いていました。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>実際、この業務での企画も、思うほど人が集まらないのが悩みです。いわゆる観光ツアーの、バスで慌ただしく見てまわる企画と比べて、地元の人とじっくり交流する場を設けるような企画なので、魅力的だと思うんだけどね。利益を取らずにできるだけ安くしているし。参加した人には満足してもらえるし、安かったと言われるんだけど、参加してもらうまでが難しいんだよね。</p>
<p><strong class="orange">原田</strong>その行けばの行くまでが難しくて。周知とか広報の方法って難しいなとすごく感じるんですけど。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>観光PRはどこでもやっているしね。PRするのが当たり前の時代に、他と差別化するのは難しいことだと思う。お洒落なパンフレットを作ればいいわけじゃない。</p>
<p><strong class="orange">原田</strong>私の印象なんですけど、卒論でそういう話を聞く中で、広報とかPRに関してはやっぱりコンサルとか専門家の人がやって欲しいのかなと思うんですけど。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>でも広告代理店とかコンサルタントが作った、お洒落で効果的なチラシを配れば人がくる、というものではないんじゃないかな。それよりは地元の人が特産品を持って東京に出てきて、方言丸出しで喋ったほうがずっといいと思う。こんなことを言うとコンサルタントって何なんだろうって思うかもしれないけど、コンサルを頼りにしている所でうまくいった所なんか見たことがない。これは観光に限らず、まちづくりやまちおこし全体に関してだけど、コンサルタントなんか役に立たない方がいいと個人的には思っています。そういう自己矛盾はいつもある。</p>
<p><strong class="orange">原田</strong>必要としているレベルだったらもう入っていっても意味が無いのですか。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>コンサルタントに来てほしい、って市民が本当に思っているとしたら、その時点で市民力は低いんじゃないかな。「活性化したいのでアイデアください」なんて言われて、よそ者のコンサルタントが入っていって、色々調査して、こんなんいいんじゃないって、ちょっと知った感じで企画をしても、あまりうまくいかない。結局、自分たちで考えていなければ、「これはやれねえなあ」とか、「リスクがある」とか言って動かないことのほうが多いんじゃないかなっていう気はするけどな。自分達が考えて動く方がずっと大事で。まちづくりのコンサルタントって何が専門技術だと思う？　私は、5年働いてもまちづくりの専門家だなんてとても言えない。バリアフリーの法律は一般の人より知ってるし、アドバイスもできる。でもまちづくりに対してその地域の人が自分で考えるよりいい提案ができるなんて思えない。きれいな資料やパンフレットは作ってあげられるし、フローチャートを書いてあげることはできるかな。地元の声を計画書っぽくまとめるっていうこともできる。でも結局は、本質的には役に立たないと思う。</p>
<p><strong class="orange">原田</strong>私の卒論は、市民組織の人とかに話を聞くのが調査のメインなんですけど、そういう人達から話を聞いたときに、経験が欲しいから専門家とか、コンサルタントに入ってきて欲しいっていう発言がたまにあります。自分達は井の中の蛙でしかなくて、それを外から見たときにどういう位置づけにあるの、とか、他のまちはどういうことをやっているの、という事を知りたいときに自分達は数を見られないから、そういう経験を聞かせて欲しいという話を聞いたことがあるのですけど。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>それだったら学識経験者にシンポジウムをやってもらったほうがいいんじゃない？　いっぱい写真使って2時間くらいしゃべってもらえば、みんな喜んでくれるよ。別にコンサルタントを批判するつもりは無いんだけど。</p>
<h3>コンサルタントは必要ない？</h3>
<p><strong class="green">上田</strong>会社に入って最初に深く悩んだのは、コンサルタントって、お金がかかるんだよね。例えば、4班構成のワークショップをやろうとしたら8人必要。司会も入れたら9人。準備に何日かかければ、簡単に1回50万円くらいかかっちゃう。さらに、その倍ほども利益（事務方の経費や会社の運営費・会社の利益）として計上しなきゃいけない。それなら地元のNPOとかに100万円あげたほうがよっぽどいろんなことができるんじゃない？　5回やるんだったら500万円あげればいいんじゃない？って思った。今でもそう思うけどね。地元の人が自分達でお金を生み出したり、役所を巻き込んで補助金を引っ張ってくることができて、自分達で考えて活動できるなら、その方が絶対いい。</p>
<p><strong class="orange">原田</strong>逆に、仕事をしている中でこれは良かったというか、役に立ったのではないかって思うときありますか？</p>
<p><strong class="green">上田</strong>いわゆる「まちづくり」と行政計画づくりは少し違って、行政計画をつくるにはコンサルタントが必要だね。例えばバリアフリーの仕事だったらコンサルが入る意味は分かりやすい。障害者に問題点を教えてもらって、課題を共有して、事業者と連携して計画をつくる。障害者が自分でバリアフリー化を進めることはできないけど、コンサルタントが効果的な計画を作れば、目に見えた成果が出る。自治体は委託をすることで、実効性の高い計画をつくるためのノウハウを得ることができる。計画を作る意味は、計画に位置づけた事業を進めること。それは障害者が自分達で役所に要望書を出して「参考にさせていただきます」なんてありがちな回答をもらうよりは圧倒的に力があって、そこにお金をかける価値はあると思えるんだよね。私はバリアフリーをやりたくてこの会社に入ったわけじゃないけど、成果が目に見えて、意味のある仕事をやれているっていうのは心の支えになっている気がする。地元に踏み込んでまちづくりをやりたいとか、景観の仕事をしたいというのは確かにあったし、今もそういう仕事はおもしろいだろうなと思うけど、自分が働いて役に立てるかも大事で。終わった仕事を振り返ってみて、その仕事によってまちが何にも変わってなかったらがっかりしちゃうし、それでお金をもらったことって何だったんだろうって思う。意味があったな、と思える仕事がいくつかあって、それを支えにやっている気はします。</p>
<h3>書類で地域に貢献できること</h3>
<p><strong class="orange">原田</strong>計画ってそうなんですね。私の研究室も計画系なので、先生が計画作りに学識経験者として関わってらっしゃったりしています。ただ、計画は縛りとしての効果があるんだっていうのは初めて知りました。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>仕事をしてからの方が計画とは何なのかっていう理解は深まるかもね。総合振興計画とか都市マスタープランって、それだけを本として読んでも、ありきたりのことが書いてあるだけでくだらないなという感じがするでしょ。計画ってすごく無責任だと思う。書いた通りにならなくても、日本語がおかしくても、誤字があっても、人が死ぬわけじゃない。それは設計との大きな違い。無責任な計画書って世の中にいっぱいある。でも、そこに言葉が書いてあるか書いていないかの違いはすごく大きい。書いていないと予算もつかないし、その分野の話は進まないんだよね。当たり前のことをきちんと書いておかないといけない。そういう意味では、行政計画づくりは結果がすべてだったんだけど、ここ10年くらいで住民参加がしきりに言われるようになって、計画を作るプロセスがまちづくりの一環になることが重視されるようになった。ワークショップをしながら計画を作って、地域のリーダーを見つけて次の展開に結びつけていこうっていう流れにはなっている。</p>
<p><strong class="orange">原田</strong>今までは計画として成果物があるっていうのが一番大事だった頃から計画を作るプロセスが大事になってきたということですか。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>どっちも大事。いい計画を作らないとその先も良くはならないけど、プロセスも重視されるようになってきた。まちづくりは住民が参加するっていうより元々、住民がやっていくものだけど、そういう仕事がコンサルタントに委託で出てくることはあんまりない。一方、何かの計画を住民と一緒に作りましょうっていう仕事はある。住民参加っていう言葉はそういう意味だと思う。コンサルタントとして仕事をする上では、計画づくりの中でまちづくりの力になるようなきっかけをどれだけ作れるかっていうことを考えたいし、その先にいい展開になるような言葉をどれだけ計画書に埋め込めるか、っていうことを大事にしたい。大体の行政計画は、書かなきゃいけないことは法律とかで決まっているから、手を抜こうと思えば、どこかの計画をもってきて名前を変えちゃえばいい。それをどれだけオリジナルにして地域のためになることを書けるか。それとそのプロセスの中でどれだけきっかけを作ってあげられるか。言っているほどやれているわけじゃないんだけど、そういう気持ちはあって、なかなかそうならないから歯痒いって感じてる。</p>
<h3>女性として建設コンサルタントで働くこと</h3>
<p><strong class="orange">原田</strong>是非聞かせていただきたいなと思うことがあります。最近、ご結婚なさったって伺ったんですけど、やっぱり女性としてコンサルで働くのは大変なんですか。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>大変ですよ。将来は全く見えない。どうしたらいいのか分からない。正直。</p>
<p><strong class="orange">原田</strong>周りの方で女性のコンサルの方って少ないですか。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>下には大分増えたよね。うちの会社で採用している女性社員はここ数年はすごく増えてる。自分より上の女性社員は結婚してやめる人も多いし、子どもを産んで復職してがんばっている技術職の人は少ないのが実態ではある。それを頑張ってうまくいかなかった人もいる。確かにコンサルタントは忙しい仕事だけど、自分さえ納得できれば忙しくなく働くことはできると思う。契約社員になってもいいし、正社員のままでも、残業しないで責任ある仕事を引き受けないようにして働き続けてもいい。うちの会社の場合は、産休も育休もとれるし、10時から4時っていう育児時短もできる。でも、そういう働き方で満足できるかは別の話で。今だって、別に好きで残業しているわけじゃないけど、その仕事を自分が責任もってやるためにそれだけ働かなきゃいけないと思っているからそうしているわけでしょ。そんなに働かないっていう選択は、責任を持てないっていう選択で、それでいいと思えるかっていうのはずーっと悩んでいる。結婚すること自体は何か変わるわけじゃない。私は相手もコンサルなので今は仕事が遅いことにも理解はあるけど、二人とも帰ってこないような感じだから、将来子どもができて交互に保育園のお迎えに行くとかいうことになったら、共倒れになっちゃいそうで。どうしたらいいのかなーってずっと思っている。</p>
<p><strong class="orange">原田</strong>それは人によりけりっていう感じですか。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>うん。</p>
<p><strong class="orange">原田</strong>ありがとうございます。参考になりました。</p>
<h3>今回の対談を振り返って</h3>
<p><strong class="orange">原田</strong>ものすごく個人的なことを話していただいて充実した時間でした。コンサルタントは無ければいいんじゃないかっていう話はその方面を志望していた身としてはなるほどと思ったりもしつつ、だからといって無くなることもないんだろうな、と何となく思いました。自分が実際就職するときに難しく頭で考えるよりも、どんどん現場に出て行って自分の生の経験から感じてくればいいのかなと今のお話を聞いて思うことができて良かったです。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>あんまり明るい話をしてあげられなかった気がするので申し訳ない気持ちもあります。私自身も、コンサルタントの職能って何だろうとずっと悩んでいるんです。土木構造物づくりよりまちづくり、まちづくりよりひとづくりっていう社会的な流れがあるよね。コミュニティデザインを批判するつもりはないけど、ひとづくりの時代のコンサルタントとしてすべきことっていうのが、業界自体として全然見えてないんじゃないかなって思う。ものや場所を作るプロとしてのコンサルタントの仕事はあるし、コンサルタントがまちづくりを誘導していくことはある程度、職能としてはあり得ると思う。だけどひとづくりに対してコンサルタントがどうあるべきかってすごく難しい。ひとづくりまではいかないんだけど、ひとに関われる機会はちょくちょくあるっていうところで歯痒い思いをするっていう立ち位置な気がする。本当にひとづくりをしようと思ったら地域に入り込むしかない。それはお金の面でも委託っていう仕組みの面でも今のコンサルタントがやれることには基本的には限界がある。自由にやっている人達もいるように見えるかもしれないけど、それだって本当かなって個人的には疑問に思っている。まちづくりの仕事を志して、山崎亮さんのような働き方に憧れている人は多いと思うけど、コミュニティデザイン的なことは、正直、会社員の仕事としては成立しにくい。儲からないし、そんなに時間も使えない。だから、お金を稼ごうとするのを諦めれば違う生き方はあるかなって思っている部分はある。でも、やっぱり私はお金が欲しいから会社員になっていて。会社員として、社会人としてちゃんとお金をもらいながら、ちょっとでもまちと関わることのできるギリギリのところで、面白い仕事を探して働いているんじゃないかなというのを今日改めて確認して、そんなスタンスなんだから悩むのもしょうがないか、と思いました。</p>
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		<title>神保町から届く声</title>
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		<pubDate>Tue, 27 Dec 2011 14:12:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[11]]></category>

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		<description><![CDATA[本が好き
私の生まれた町には1軒も本屋がなかった。未だ農村の雰囲気を残す典型的な地方の田舎町である。本を手に入れるためには、大きな川を渡りとなり町まで自転車で1時間かけて行かなければならなかった。町に本がないと同時に、家 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>本が好き</h3>
<p>私の生まれた町には1軒も本屋がなかった。未だ農村の雰囲気を残す典型的な地方の田舎町である。本を手に入れるためには、大きな川を渡りとなり町まで自転車で1時間かけて行かなければならなかった。町に本がないと同時に、家にもほとんど本がなかった。すると必然的に本に触れ、読書をする機会が少なくなる。両親も友人も、本には縁がなかった。ただ、祖父だけが本を愛していた。私は祖父に導かれるように、本が好きになっていった。</p>
<h3>神保町との出会い</h3>
<p>私の読書体験には決定的な区切りが存在する。神保町探訪以前と、神保町探訪以後だ。<br />
大学入学を機に上京し、東京には実に個性豊かな書店がひしめき合っていることに気がつき、色々な街に自転車で出かけて、大小様々な書店を巡った。最初は新刊書店だった。特に、池袋のジュンク堂を最初目にしたとき、あの地下1階、地上9階の建物の中の、圧倒的な本の量に心を打たれた。東京で新刊書店を巡るうちに、これまで全く目に入ってこなかった古本屋の存在にはたと気がつくようになった。それも離散しているのではなく、古本屋が集中してある。古本屋がたくさんある街なんて見たことがない。夢のようだった。その発見が、神保町との最初の出会いだった。</p>
<p>　思い返せば、祖父からこんな昔話を聞いたことがあった。</p>
<p>東京には神保町という町全体が古本屋のようなところがあって、僕は昔東京に住んでいた頃、古本屋を友人と一緒に巡ったんだ。すると友人と僕とでは店で本を見るペースが違うから、あっちこっちの店を巡るごとにどんどん離れていって、お互いどこにいるのか分からなくなってしまうことがよくあった。</p>
<p>この話を聞いたのは、確か小学生の中頃の頃だったように思う。まだ若い祖父が古本屋さんに入って、一緒に来た友人のことなど気にも留めずに夢中になって好きな本を選び、一人で店を何軒も梯子するような風景を思い浮かべながら、きっと神保町は良いところなんだろうなあ、と思ったことを記憶している。</p>
<h3>世界一の本の街</h3>
<p>神保町は東京都千代田区にある。北に御茶ノ水、東に秋葉原、西には九段下と、とても恵まれた場所に位置している。歩いてみると、どこもとても近い。御茶ノ水と神保町と秋葉原を歩いて巡れるなんて、なんとも贅沢である。<br />
また、「世界一の本の街」と呼ばれているほど、書店が集まっている街である。古本屋は170軒近くあるといわれている。他にも出版社や出版問屋の取次店、飲食店、周辺には大学や専門学校などが集まっており学生街としての一面も持つが、通りの周りを歩いていても、それほど学生が多いようには見えない。古本屋を臨むのは、かつては文学青年だったのだろうと思えるような年配の方や、研究者や本の収集家と思しきマニアックな人たちがメインであるように思う。</p>
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 235px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2011/11/taniguchi1.jpg" alt="古本屋の立ち並ぶ風景と均一棚を覗く人びと（写真：筆者撮影）" title="古本屋の立ち並ぶ風景と均一棚を覗く人びと（写真：筆者撮影）" width="225" height="300" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">古本屋の立ち並ぶ風景と均一棚を覗く人びと（写真：筆者撮影）</p></div>
<p>古本屋のある風景は、見えないものまでをも引き寄せる。私の眼差しが、現在だけでなく、過去と未来とを同時に捉える。かつて大切な存在を喪った自分と、そのひとと過ごした過去を悼む現在と、これから過ごさなければならない自分の未来とが一体になったような風景だ。そこでは、誰かの記憶と自分の記憶が混じり合い、他人という本来ならばどうしても超えられない堰を軽々と超える。</p>
<h3>古本に会いにゆく</h3>
<p>文は人なり、という。ならば文が詰まっている本も、人である同理がある。本の中でも、古本にはきっと、数奇な運命を宿し、人生経験豊富なのだ。新刊書店の若者たちとは、顔も、声も、仕草も少し違う。何と表現してよいか分からないが、とにかく味がある。それに、会いたい本に中々出会うことが出来ないから、巡り会えたときの嬉しさは一入である。例えば、私小説はその多くが絶版となってしまい新刊書店の棚にはほとんど置かれていないが、古本屋ではまだ大切そうに棚に置かれている。井伏鱒二、尾崎一雄、上林暁、宇野浩二・・・本は読まれることを待っている。大切な友人たちが、畏れ多い偉人たちが、忘れられた、無名だが実力のある作家たちが、古本屋という空間と時間の迷宮のなかで静かに待っている。<br />
かつて東京の大森で山王書房という古本屋を営んでいた故関口良雄氏は、著書『昔日の客』の中の「古本」というエッセイで次のように書いている。</p>
<p>私は店を閉めたあとの、電灯を消した暗い土間の椅子に坐り、商売ものの古本がぎつしりとつまつた棚をながめるのが好きである。（中略）店の棚を眺めてあの本、この本に思いを寄せていると、もう何年ともなく棚の上に埃をあびたままでいる久米正雄の本に目がついた。開店の頃だからもう十年近くにもなるだろうか。「破船」「螢草」などの二十数冊の本は、棚に根が生えたように動こうともしない。それでも私はこの久米正雄の本を売れないからといつて、古本市場に出して処分する気にもなれないでいる。</p>
<p>買う側かしてみれば、古本屋は古本に会いにゆく場所だが、売る側からすると店の古本は、商品である以上に大切な家族でもある。古本屋業は、本があまりにも好きな人は向かないかもしれない、所有者が蔵書を売る時の悲しみがあまりにもわかりすぎるから。</p>
<h3>古本から立ち上がる風景</h3>
<p>古本は、長い年月を経て人から人へ渡り、多くの人に読まれ、今まさに偶然的に古本屋の棚にある。当然、以前の持ち主の痕跡が本のそこかしこに残っている。これまで出会ったもので言うと、例えば、新聞の切り抜き。以前購入した、小林秀雄の全集の各巻に、小林秀雄に関する様々な新聞記事が挟んであった。あとは一度だけ押し花が挟まれていたことがある。本を持って散歩に出かけ途中に摘んでページの栞変わりにしたのだろうか、それともただ、目の前に美しい花があったから、思わず挟み込んだのだろうか。ゆったりとして微笑ましい風景が浮かぶ。文中に書き込みもある。最後のページに、読後感を書き付けている本にも出会ったこともある。</p>
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2011/11/taniguchi2.jpg" alt="小林秀雄全集に挟まれた、氏に関する1979年の新聞記事（写真：筆者撮影）" title="小林秀雄全集に挟まれた、氏に関する1979年の新聞記事（写真：筆者撮影）" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">小林秀雄全集に挟まれた、氏に関する1979年の新聞記事（写真：筆者撮影）</p></div>
<p>たくさん書き込んでありとてもよく読まれたと思われる本でも、状態がとても良いものがある。そんな時は、さぞかし本を大切に扱っている、前の持ち主の性格や、端整にその本を読んでいるその姿などが浮かぶ。本に残された痕跡から、こちら側の想像力で、今ここにはない、かつてあったどこかの風景が立ち上がる。物言わぬ本が、過去の物語を雄弁に語っている。<br />
本と人の関わりの歴史を意識した瞬間、ただ一冊の古本から、それを手にした人にとっての無限の人生の解が導き出されないだろうか。つまり、一冊の本が秘めている歴史が異なるならば、実は同じタイトルの本であっても、こちらの読書体験は全く異なるものになる可能性があるということだ。<br />
だから、古本の読書はただ本に書かれたことを解釈する営みだけではなく、前の読者の人生に触れる営みでもあって、そのような体験全部含めて読書というのだろう。私にとって、古本を読む醍醐味の多くはそこにある。</p>
<h3>思い出に導かれて</h3>
<p>神保町での思い出話を楽しそうにしてくれた祖父は、昨年の12月に亡くなった。きっと私が今、ますます神保町と古本に惹かれるのは、亡き祖父の面影を追っているからかもしれない。今から65年前、次から次へと古本屋に入っては本を眺めていた祖父の姿を、この街のどこかに感じられるからなのかもしれない。街の姿かたちは変わっても、思い出は消えることはない。大切な人のいる神保町の風景が僕を支えている。それがたとえ、一度もこの目で見たことのない風景であっても。</p>
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		<title>いい人で終わるな、GROUNDSCAPEの意味を問え ーGSDW2011レポートー</title>
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		<pubDate>Tue, 27 Dec 2011 14:11:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[11]]></category>
		<category><![CDATA[イベント]]></category>

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		<description><![CDATA[はじめに
「非日常の風景を目の当たりにしただけに、改めて「日常」とは何か問いたい」
3.11の後、あらゆるものの価値が揺らいでいる中で、あえて日常の風景について考えたかった。津波や原発によって非日常性が顕在化することによ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>はじめに</h3>
<p>「非日常の風景を目の当たりにしただけに、改めて「日常」とは何か問いたい」<br />
3.11の後、あらゆるものの価値が揺らいでいる中で、あえて日常の風景について考えたかった。津波や原発によって非日常性が顕在化することによって日常が意識化されたからかもしれないが、復興計画に関する情報が飛び交う時期にこれからの日常の風景とはどういうものなのかについて考える必要があると思ったからだ。<br />
人々は、見慣れた風景を自分自身の中に作り出していく。身の回りの風景を日常化する。日常化された風景は安定した状態として認識されるため、普段は大して関心を抱かない。毎日の生活において、見慣れた風景の変化に敏感すぎることはその他の情報についていけなくなることがあるからだと思う。そんなこと考えていたらやってられない、そんなところだと思う。「ちょっといいところだな」と思った場所が多少壊されたことくらいのことでノスタルジーにずっと浸っていては暮らしていけない、そんなことより大事なことがある、というのがいわゆる都会で生活する人々の正直な気持ちなのだろう。<br />
牛久はそんな「見慣れた風景」を生み出しているまちだと思った。初めて訪れた際に感じた既視感。いわゆる「郊外」。簡単にカテゴライズできるようにまちが出来ている。見た目だけでなく、音や匂い、そして周辺を歩く市民の雰囲気なども郊外という記号を帯びているような感じがした。郊外は、その中心部との関係性によってまちが成立している面もあるため、冷たい言い方をすれば、まちの人々にとっては牛久が変化することよりも東京や柏が変化することの方が影響あるのではないかとさえ思わせた。</p>
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2011/11/gsdw2011-1.jpg" alt="牛久中心部の俯瞰（撮影：筆者）" title="牛久中心部の俯瞰（撮影：筆者）" width="300" height="" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">牛久中心部の俯瞰（撮影：筆者）</p></div>
<p>郊外の問題点の一つは均質化といわれる。その問題が顕在化してきたのは、都心部との関係性が変化したために、自分が住む土地との関係性を築く必要が生まれてきたためと捉えることもできる。そのため、どうやったらまちらしさが出るだろうかという試みがあちこちで行われている。しかしその試みさえも均質化しているように思えるケースもある。必要なのは土地から切り離された見慣れた風景から土地の存在を取り戻し、関係性を結び、その関係が新しい日常となることではないだろうか。しかし安直な関係性で場所が消費されてはならない。<br />
今年は以上のようなことを考えながらシャトーカミヤを対象に、「パブリックスペースとして」「居場所として」という言葉で課題を設定した。</p>
<h3>いい人で終わるな</h3>
<p>WS前半はコンセプト発表や中間発表での課題を例年以上に形に落とすことを要求したために順調に進んだものの、中間講評以降苦しみもがくチームが多かったように感じた。WS終盤のエスキスで小野寺康氏が最後に「エスキスで『いい人だね』、と言われるのはデザインの世界ではバカだ、って言われているってことなんだぞ」と檄を飛ばした。個別のアイデアのいいところをただ合わせたような案は見抜かれていた。そのエスキス（内藤廣氏も同時にエスキスを行っていた）の後にもう一度コンセプトからじっくりとお互いに本音で語り合った（ように見えた）グループが最終的に案として飛躍していったように見えた。もちろんその結果、案が思うように着地できなかったところもあったが、その分裂、対立もWSとしての価値がある経験だったのではないかと思う。</p>
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2011/11/gsdw2011-2.jpg" alt="エスキースの様子（撮影：内藤歩）" title="エスキースの様子（撮影：内藤歩）" width="300" height="" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">エスキースの様子（撮影：内藤歩）</p></div>
<p>このようなWSになると、ある程度分業制にした方が効率よく作業は進む。建築の人に建築関連を任せ、土木の人に地形のデザインをしてもらい、都市の人にはまちとの接続の方法、造園の人がいれば植栽に関しての提案を作ってもらう。特にこれといった作業がない場合は模型を作ったりする。といった具合に。分業制のいいところはその効率性だが、ある時点を超えるとお互いが何を考えているのかわからなくなり、意思疎通ができなくなるという危険性を孕む。そしてズレを認識しているものの、任している人以上に専門知識がなく、ズレを指摘することで作業がまるっきし無駄になってしまうかもしれないというリスクから何も言わない場合が多い。ズレが広がっていった結果、建築も土木も都市も一緒に取り組んでいたはずなのにバラバラなものになる、もしくはアイデアが安易なものにとどまる、といったことが起きる。<br />
実際のまちづくりでも同様のことが起きているのではないかとWSを運営しながら考えた。コラボレーションと簡単には言うけれども、その前提として個としての実力、他の分野に関しても見識、信頼関係と緊張関係のバランスを保つといったことが必要であるという言葉にしてみれば当たり前なことを再認識することになった。</p>
<h3>GSが当たり前になった世代として</h3>
<p>最終講評会で乾久美子氏からの「あなたにとってGROUNDSCAPEとは何なのかを問うて欲しい」というメッセージが印象に残っている。<br />
GSDWも今年で８年目の開催であった。８期生までこれまでWSに参加したメンバーの総数は250名近くいる。GSDyも設立から６年が経った。僕らは研究室に入った時から、GS（ユースも含め）という言葉が存在していた。GSという考え方は確実に多くの学生にも浸透していると思う。ただ、GSがあまりに当たり前の言葉になっておりその意味や中身について向き合って考えた経験というのは少なくなってしまっているのではないだろうか。<br />
GSが生まれてきた経緯を体感していない世代なだけに、もう一度「GROUNDSCAPE」の意味をそれぞれ問うて悩まなければならないと思う。時代や世代によって考えることが変わってもいいと思っている。僕らにとってGROUNDSCAPEとは何なのか。すぐに答えを出す必要は無いが、そこを考えずに思考停止したままGSという言葉を使うのはどうなのだろうか。ただの仲良しサークルに堕落してしまうのではないか。次世代にGSDyを、GSDWを引き継いでいくためにも、GSについて考えることを継承していきたいと思う。<br />
WS参加者にも、ぜひただ苦しかった、大変だった、貴重な体験だった、ということだけでなく一度GSとは何なのかじっくり向き合ってほしいと願う。</p>
<h3>今年の特徴</h3>
<p>各チームの提案内容について書いてこなかったが、震災の影響も無意識のうちにあり、生と死をテーマにするものが２つ、そして時間を意識させるようなテーマのチームも多くあった。<br />
また興味深かったのは先日行われた市民発表会では最終講評会で比較的評価が低かったチームが軒並み上位に食い込んだことである。期間内で着地できなかったチームがブラッシュアップを重ね市民に伝わるようなプレゼンテーションをしていた。それに対して最終講評会で上位だったチームのデザインの真意は市民には伝わりにくかったようだ。<br />
しかしながら、今年は例年以上の力作が揃ったWSとなったと思う。</p>
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2011/11/gsdw2011-3.jpg" alt="参加者の集合写真（撮影：内藤歩）" title="参加者の集合写真（撮影：内藤歩）" width="300" height="" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">参加者の集合写真（撮影：内藤歩）</p></div>
<h3>謝辞</h3>
<p>拙い運営であったものの、熱い想いでWSに取り組んでくれたのは嬉しかったです。参加者の皆さん本当にお疲れさまでした。そしてありがとうございました。<br />
また、講師、チューターの皆様、そしてスタッフとして協力していただいた７期生やユースのメンバーをはじめ多くの方々に重ねて感謝したいと思います。本当にありがとうございました。<br />
牛久でのWSは今年で最後、来年からは別の対象地でのWSとなります。来年はどのようなWSになるか今から楽しみです。</p>
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		<title>その時、被災地で求められるデザインとは？</title>
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		<pubDate>Mon, 19 Dec 2011 13:24:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[11]]></category>
		<category><![CDATA[巻頭]]></category>

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		<description><![CDATA[　3月11日14時46分18秒。私は高知県の山中で丸太に向かって斧を振り下していた。斧の重みを利用し、刃を年輪の中心にぴたりとあて、一振りでいかに上手く薪を割るかに夢中だった。南国土佐で薪割り職人と化していた私は、遠く離 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　3月11日14時46分18秒。私は高知県の山中で丸太に向かって斧を振り下していた。斧の重みを利用し、刃を年輪の中心にぴたりとあて、一振りでいかに上手く薪を割るかに夢中だった。南国土佐で薪割り職人と化していた私は、遠く離れた東北の地で、未曾有の大災害が起きている事など知る由もなかった。そんな私がこれまでどのように被災地と関わってきたのか、そしてその中で感じた「被災地で求められるデザインとは何か？」について本稿では書いていきたいと思う。今の率直な考えと気持を書いたので、些か話が脱線しがちであるが、どうか最後までお付き合いくださいませ。</p>
<p><H3>はじまりは林業研修から</h3>
<p>　震災が起きてから間もなく9カ月が経とうとしている。その間に私は東北に3回足を運んだ。しかしその話に入る前に、まず冒頭でなぜ私が薪割り職人と化していたかについて説明した方がよいだろう。被災地と私の関わりも、全てここから始まるからだ。<br />
　今年の春、私はランドブレインの上田さんのご紹介により、田舎で働き隊！という農林水産省の農村活性化人材育成派遣支援モデル事業に参加した。高知県の土佐の森・救援隊という森林ボランティア活動を行うNPO法人に3月の１カ月間研修に入り、チェーンソーを用いての間伐や薪づくりなどを体験していた。そしてその研修期間中のイベントとして、岩手から薪割りストが講演やってくるという予定があった。しかし、その講演予定日の前々日のことである。東日本は大きな揺れと津波に見舞われた。高知に向かう途中で被災された薪割りスト・深沢光さん（岩手県遠野農林振興センター林務課長）は、職場のある岩手へと戻り、大槌町の避難所のひとつ、吉里吉里小学校で、薪を利用してお風呂を沸かす活動を始めた。そして当然のごとく、高知にもその活動への応援要請が来た。3月いっぱいという研修期間を終了したその足で、私は土佐の森・救援隊の事務局長である中嶋健三さんと共に、吉里吉里へと向かった。</p>
<h3>吉里吉里でのボランティア活動</h3>
<p>　吉里吉里では津波に流され、がれきと化した住宅の柱や梁材をチェーンソーで切断し薪をつくる作業を行った。その薪でお風呂を沸かし、被災者の方に入って頂いた。4月のはじめ、まだ雪も舞う寒い時期である。その頃避難所で生活されていた被災者の方の表情に余裕はなく、お風呂に浸かるという事もためらわれているようだった。ただそんな中でも、子供たちだけは、喜んでお風呂に飛び込み、「気持ちいい～。」といって大きな笑顔を見せてくれた。</p>
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2011/11/top1.jpg" alt="河童薪の湯ではしゃぐ子供たち（写真：吉里吉里小学校）" title="河童薪の湯ではしゃぐ子供たち（写真：吉里吉里小学校）" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">河童薪の湯ではしゃぐ子供たち（写真：吉里吉里小学校）</p></div>
<p>　地元の方に愛着を持ってもらえるようにと、この薪で沸かすお風呂は、「河童薪の湯」と名付けられた。河童はボランティア活動の拠点である遠野にちなんでいる。<br />
　2度目の吉里吉里は8月のはじめ、青々と成長した草が、町に残る津波の傷跡を覆い隠そうとしている時期だった。私はがれきからつくった薪を全国へ販売し、その収益を復興資金に充てるという「復活の薪」プロジェクトのお手伝いをした。＃＃</p>
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2011/11/top2.jpg" alt="復活の薪を作成中（写真：筆者）" title="復活の薪を作成中（写真：筆者）" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">復活の薪を作成中（写真：筆者）</p></div>
<p>　また地元住民の仮設住宅への移住も完了し、避難所も閉鎖される頃で、既に地元住民に運営の手が移された河童薪の湯のお湯はりも、その夜が最後だった。私は最初で最後の薪の湯での入浴を終え、避難所閉鎖の打ち上げを地元住民やボランティアの方と楽しんだ。避難所の打ち上げって！？というツッコミはさておき、お手製のピザ窯を囲んで、大人も子供も、みんなびっくりするくらいの笑顔だった。<br />
　3度目の吉里吉里は11月末、復活の薪の材料となるがれきも無くなってきた頃だ。がれきが無くなれば、今度は山から薪材を得ようと、津波により働き場を失った漁師たちが立ち上がった。林業経験の無い彼らにその方法を教えたのは、土佐の森・救援隊の中嶋さんである。10月から本格的に間伐材の切り出しが始まっており、長い間手入れがされず荒れ果てた吉里吉里の山々は再生に向けて歩みだし、漁師たちは林業という新たな生業を手に入れた。</p>
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2011/11/top3.jpg" alt="地元漁師に向けての林業研修（写真：筆者）" title="地元漁師に向けての林業研修（写真：筆者）" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">地元漁師に向けての林業研修（写真：筆者）</p></div>
<p>　さらに、津波で一族の家々を失った方が、自らの土地を提供して下さり、そこに林業と地域復興の新たな拠点・吉里吉里国を建国しようという計画も持ち上げっている。広大な土地に、木造の小屋をセルフビルドで建てていく計画で、建築を勉強している身として、私はその相談に乗らせて頂いた。<br />
　薪で沸かすお風呂から、復活の薪づくり、そして林業・吉里吉里国建国へと、着実に吉里吉里は復興に向かって歩んでおり、それに合わせて私の支援の方法も変わってきている。今後は、自身の専門を生かした支援ができるのではないかと期待している。</p>
<h3>三位一体の復興プラン―コミュニティのデザイン―</h3>
<p>　3度目の吉里吉里訪問の際に丁度、吉里吉里小学校で地域ミーティングが行われ、その模様がNHKの復興サポート番組として収録された。ゲストスピーカーとして、これまで各地の町おこしで成果を上げてきた、民俗研究家の結城登美雄さんを招き、地域住民には元々主産業だった漁業・仮設のプレハブ食堂・そして新たに加わった林業を含む、主に3つの職業を生業とする方々が集まった。結城さんはこれまでご自身が取り組んできたまちづくりの中で、吉里吉里でも応用できる可能性のあるものを、それぞれの業種ごとにお話された。それを元に集まった地域の人々が、「これは私たちにもできそうだ。」「この実現にはあの課題を乗り越えねば。」など自由に意見を出し合った。そんな話し合いを進めていく内に、住民同士の間で段々と見えてきた復興ビジョンがある。それは、結城さんが持ちかけたこんな提案からだ。<br />
「漁師さんが採ったわかめを、お母さんたちがおいしい料理にして食堂で出す。その料理を間伐材から作った木のお皿やお箸を使って食べる。こんなのいいんじゃないか～？」<br />
結城さんはこれまで別々に活動してきた漁業・食堂・林業の3業種を見事に結びつけ、吉里吉里をひとつにしてしまった。</p>
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2011/11/top4.jpg" alt="吉里吉里での地域ミーティング（写真：筆者）" title="吉里吉里での地域ミーティング（写真：筆者）" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">吉里吉里での地域ミーティング（写真：筆者）</p></div>
<p>　被災地では未だにハードをきちんと整備するだけの資材とお金がない。このような状況の中で復興に向けて大きな力を発揮するのが、人と人との繋がり方のデザイン「コミュニティデザイン」である。そして、このような全体的な組織作りが整った後、次は資金が必要となってくる。ではどのようにお金を調達してくればよいだろうか。</p>
<h3>国の補助金は待ってられない！―お金の流れのデザイン―</h3>
<p>　地域ミーティングの中で結城さんがユニークな資金の生み出し方をご紹介された。今回はその中のひとつ、「千年の蔵」プロジェクトについてお話しよう。<br />
　宮崎県日之影町の山中に築100年を超える石蔵がその役目を終え、ひっそりと建っていた。このまま人が訪れることもなく、朽ちていくだけの運命だったこの蔵を、なんとか村おこしに使えないかと「五ケ村村おこしグループ」が立ち上がった。石蔵を移築し、カフェに改装して蘇らせようという計画だ。しかし、蔵の移築と改装には1千万円かかるという。この多額の資金を一体どこから調達するのか。村おこしグループは銀行からの借金はもちろん、国や県からの補助金という選択肢も取らなかった。その代わりに10枚綴り1万円のお食事チケットを販売したのである。このチケット1枚は、カフェがオープンした後に千円分のお食事券として利用できる。この1万円のチケット綴りを千人に販売することで、1千万円という資金を手に入れたのである。千人の協力を得て蘇ったこの蔵は、「千人の蔵」と名付けられた。<br />
　このプロジェクトの素晴らしいところは、単に資金を上手く集めたことだけではない。カフェのオープンを待たずして、将来必ず利用してくれるお客さんをも同時に獲得している点だ。また、結城さんはこの前金というシステムについて、興味深いことをおっしゃっていた。このプロジェクトに限らず、農業・漁業などにおいても「前金という形でお金が入ってくることで、事業の計画も立てやすく、安心して生産することができる。生産者の安心が、消費者の安心にもつながる。」という。つまりお金の仕組みというのは、消費者の安心にまで影響するものなのだ。<br />
　今回の災害は非常に規模が大きく、国も即座に資金を必要としているところに届けることができない。それぞれの被災地においても、この例のように国の助けを待つことなく自らの力で資金を生み出すことができれば、復興へ向けてスムーズに計画が進んでいくだろう。私は間もなく上海の投資ファンドへ研修に入り、ファイナンスの勉強をしてくる予定だ。そこでは、この千人の蔵のように、プロジェクトを成功へと導くお金の流れのデザインを習得してきたいと思う。</p>
<h3>宮古市仮設住宅集会所建設―プロセスのデザイン―</h3>
<p>　本章では吉里吉里から宮古へ舞台を移し、仮設住宅に求められるデザインについて述べたい。まずはこの写真をご覧頂こう。</p>
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2011/11/top5.jpg" alt="仮設住宅の集会所ODENSE（写真：筆者）" title="仮設住宅の集会所ODENSE（写真：筆者）" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">仮設住宅の集会所ODENSE（写真：筆者）</p></div>
<p>　これは岩手県宮古市の仮設住宅に併設された集会所ODENSEの建設風景である。立命館大学建築計画研究室のプロジェクトで、私も現場に赴き、10日間仮設住宅に泊まり込んで、施工のお手伝いをしてきた。この写真を見て、何のデザインがされているかおわかりだろうか。一見するとサッカーボールのような派手な外観に目が行ってしまうだろう。しかし、私が本プロジェクトにおいて評価したいのは、施工プロセスのデザインである。この集会所は基礎や電気・水道工事などを除き、全ての工程を学生の力で行った。遠く関西から東北の地へ足を運び、約1ヵ月間学生が毎日のように現場へ通い施工を行った。これは集会所の併設された、僅か14戸という小さな仮設住宅の住民の方々にとっては、日々の楽しみでもあったようだ。またパネルが全て組み上がった日には、近頃では珍しくなった上棟式も行った。周辺地域の方も大勢参加し、小さな仮設住宅は大きな活気に満ち溢れた。このように外からも人を集めるというのは、規模の小さな仮設住宅の集会所にとっての大きな役割のように思う。今回の施工プロセスを経て、この集会所は地域から愛されるものとなり、これからも活用されていくのではないかと期待している。</p>
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2011/11/top6.jpg" alt="上棟式では地元住民が空から降ってくるお菓子をめぐって大フィーバー（写真：筆者）" title="上棟式では地元住民が空から降ってくるお菓子をめぐって大フィーバー（写真：筆者）" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">上棟式では地元住民が空から降ってくるお菓子をめぐって大フィーバー（写真：筆者）</p></div>
<p>　今回のプロジェクトのように、震災や津波で家を失った人々のためには、国も企業も国民も、誰もが協力的だ。学校や公園などの公共の場が避難場所となり、一時的に住む場所が当たり前のように提供される。しかし、同じく家を失った人でも、公共の場に一時的にでも住むことを許されない人々もいる。次章では震災という災害に見舞われた東北かもら舞台を移し、みなさんの周りにもいる、都会に住まう被災者について考えたい。</p>
<h3>被災者とホームレスとの違いって？―概念の「Re デザイン」―</h3>
<p>　駅や公園などに段ボールやブルーシートを用いて家を建て住む人々、ホームレス。彼らを見て、みなさんはどんな感情を抱くだろうか。嫌悪感？それとも同情？一般的に、ホームレスは地域住民からは邪魔者扱いされる。同じ公共の場を住処としている被災者に対する扱いとは大違いだ。この違いは一体どこから生まれるものなのだろうか。<br />
　今回のような地震・津波に限らず、台風・洪水などの天災による場合は、家が失われた要因は明確である。そのため被災者は完全なる被害者として扱われ、保護の対象となり、公共の場に一時的に住むことも快く許される。一方、ホームレスの場合はどうだろうか。不況という恐ろしくも実態が見え難く、その影響する範囲も不確かなものが要因となり、職を失い、家を失った場合は、その因果関係がはっきりとしないため、被害者として理解されないことが多い。しかし、この両者に大異はあるのだろうか。不況は人災、つまり地震や台風と同じく災害とみなし、これにより生み出されたホームレスも同様に被災者として扱うことはできないのだろうか。ホームレスというこれまでの概念の「Re デザイン」である。<br />
　ごく短期的なものではあるが、ホームレスも被災者のように、公共の場を避難所として利用した例がある。2008年末から翌年始に東京日比谷公園内に設けられた「年越し派遣村」である。このようなホームレスに対するセーフティネットと、都市防災計画を同時に考えることはできないだろうか。つまり、地震などの天災においても、不況などの人災においても対応し得る、地域避難所計画を提案したい。そこで今度は、都市空間の研究を行う身として、自身の研究をこのセーフティネット＆都市防災計画にどう生かすかについてお話したい。</p>
<h3>都市内空地の研究を防災計画に生かす</h3>
<p>　私は現在、都市におけるオープンスペースを定量化する研究を行っている。まずは簡単に私の研究を紹介しよう。<br />
　空地を建物が建っていない土地、すなわち非建蔽地とみなした場合、その量を表す指標として空地率がある。しかし、空地率は単なる面積比で計量されるもので、空地のもつ形態上の差異が計量できないという欠点がある。例えば図1に示すように、同じ空地率であっても集約している空地(A)の方が利活用の可能性があり、有効に働くと考えられる。つまり、空地を単に非建蔽地とみなし、その面積のみで捉えては実際に活用可能な空地量の把握はできない。そこで、</p>
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2011/11/top7.jpg" alt="図面" title="図面" width="225" height="300" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">図面</p></div>
<p>私の研究では空地を建物間の「隙間」と有効に活用可能な「有効空地」に二分して捉え直すこととする (図2)。ここでいう隙間とは、建物配置図において半径rの円が通過できない領域として定義し、隙間以外の空地を有効空地とする。半径rの値は分析の目的に応じて設定することが可能である（図3）。<br />
　この手法の都市防災計画への応用を考える。その場合、通過させる円の半径rを災害時の利用を目的として設定すればよい（例えば、r=1.5m：自衛隊トラックの通行可能幅、r=5.5m：1㎡/人とした場合の一時避難場所設置基準、r=7.0m：緊急救助用ヘリポート設置基準など）。これにより分析対象地において災害時に活用可能な有効空地がどれだけ存在するのかが明らかとなり、一時的な避難場所としての有用性を明らかにすることができる。つまり既定の避難場所に対しては、その避難場所としての有用性の再評価を、さらに現在避難場所に指定されてないオープンスペースの中からも、新たに避難場所として適した場所を見出すことができる。これにより、地域住民にとってより身近な避難場所を組み込んだ、新たなハザードマップ作成が可能となる。</p>
<h3>まずは適切な設問設定から</h3>
<p>　ここまで「その時、被災地で求められるデザインとは？」というタイトルを掲げ、いくつかのデザインについて書いてきた。ここでは、「どのようなデザインにするのか？」ということよりも、「何をデザインするのか？」ということに重点を置いてきた。デザイナーの視点というよりは、プランナーの視点なのかもしれない。デザインの勉強をしていると、与えられた案件に対して「どのようなデザインにするのか？」という解答ばかりに目が行ってしまい、そもそも自分がデザインしているものの価値について問い直す事を忘れてしまうことがある。しかし、これは危険である。なぜなら、プロジェクトを成功に導く鍵は、解答の美しさの前に、適切な設問の設定にあるのだと、被災地での経験を通じて改めて感じたからだ。<br />
　これからも私は積極的に被災地と関わっていくつもりだ。刻一刻と状況の変わっていく被災地で、「いま、一体何のデザインが求められているのか？」支援を続けていく中で、しっかりと見極めていきたい。</p>
<h3>おまけ―考えるのって怖くないですか？―</h3>
<p>　7月末だったか、レタプレ事務局の服部くんから震災記事の執筆をお願いされた時、実を言うとかなり気が進まなかった。レタプレを執筆するには、与えられたテーマについて深く考えなければならないことがわかっていたからだ。それは、ここ数年物事について深く考えるということを拒んできた私にとっては、かなりのプレッシャーだった。そんな重圧もあり、なかなか原稿に向き合えない日々が続いた。なぜ私がこんなにも重症の考えたくない病にかかってしまったのか、その原因についてはおまけという本章の立場もあるので、ここでは割愛させて頂く。しかし、学部3回生の時に参加したGSDWで、内藤先生に言われた「敷地への愛が足りない。」という言葉がそのきっかけとなったことは間違いない。一生懸命考えれば考えるほど、現実とは違う方向へと行ってしまうのではないか…それからずっと、考えることが怖かった。しかし、これはただの逃げなのかもしれないと、最近思うようになってきた。考えた結果が例え間違っていたとしても、それが間違いだとわかるだけで、以前の私よりは成長しているのだ。<br />
　もう怖れるのはやめよう。考えることの怖さを知った私は、現実と思考とのバランスも、きっとうまくとっていける。</p>
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		<title>編集後記　フラッシュバック、夏</title>
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		<pubDate>Sun, 02 Oct 2011 06:49:51 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[2011 Summer]]></category>
		<category><![CDATA[編集後記]]></category>

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		<description><![CDATA[GS24
　7月1日16:00から翌2日まで24時間にわたっておこなわれた、GSデザイン会議企画“GS24”。その中のD枠“どーするシュウカツ”に自分も登壇者として参加させていただいた。
内容は、就職を控えた自分たちが、 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>GS24</h3>
<p>　7月1日16:00から翌2日まで24時間にわたっておこなわれた、GSデザイン会議企画“GS24”。その中のD枠“どーするシュウカツ”に自分も登壇者として参加させていただいた。<br />
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2011/09/2011summeredit1.jpg" alt="GS24（撮影：内藤　歩）" title="GS24（撮影：内藤　歩）" width="300" height="200" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">GS24（撮影：内藤　歩）</p></div><br />
内容は、就職を控えた自分たちが、何を考え、どうアプローチしているのかというもの。結果は…空振り三振。しかし、今振り返るとなんだったのだろうか。あのやってしまった感覚と同期の団結感が増して熱くなる状況。最終的には「24年後、道はそれぞれでも一緒に仕事をしよう」と酒を酌み交わした。<br />
　この無鉄砲ともいえる企画“GS24”。個人的な意見としては、今後是非継続していただきたい。そして今回参加できなかったみなさまも、あの摩訶不思議な充実感を味わっていただきたい。企画・準備をしていただいた皆さん、素敵な夏の思い出をありがとうございました。<br />
服部周平（国士舘大学大学院）</p>
<h3>乗鞍の子ども達</h3>
<p>先日、長野県の乗鞍高原にて、地元の小学生とサマースクールを行う活動に参加してきました。子どもたちと会うのは2年ぶりでしたが、大きく成長している姿に驚かされました。大縄とびがうまく跳べず、引っ掛かってばかりいた子が、今年は上手に跳んでいる姿に感激。5人ずつのグループで何回連続して跳べるかを競ったところ、回を重ねるごとに子どもたち自ら跳び方を工夫するようになり、みんなで声を合わせ、記録を伸ばしていきました。最後には、小学1年生もいるグループが65回という大記録を残しました。子どもたちの持つ力というのを改めて感じる瞬間でした。<br />
さて、夏学期も終わり、大学院の四分の一が終わったことに衝撃を受けています。やろうと思っていたことは何一つできていません。子どもたちに負けないように、もっともっとがんばらないといけませんね。<br />
内藤　歩（東京大学大学院）</p>
<h3>小旅行</h3>
<p>夏休みに太宰治の故郷である津軽半島に行ってきました。「津軽」という小説で太宰は、旧友や乳母と出会いながら、津軽半島を巡り、新たな発見をすることで自分の故郷を自負するに至ります。<br />
　太宰治が「なあんだ」と言いながら心の中ではうっとりしていた津軽平野や、富士山よりも女らしいと言う岩木山を見ましたが、少しだけそのまなざしに近づけたかと思います。<br />
 生家は金木町というこれという特徴のない町ですが、洋風の小洒落た建物が多く、まさしく太宰治が言うように「底の浅い見栄坊の町」で、今は寂れています。外壁だけを改修したり、安直に店名を「Dazai〜」にしている建物がちらほらあり、「これが見栄坊の名残か」とおかしさをかみしめながら、いわゆる美しいまちなみを歩くときとは違う楽しみがありました。<br />
金子玲大（早稲田大学大学院）</p>
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		<title>社会人×学生：１対１対談</title>
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		<pubDate>Sun, 02 Oct 2011 06:49:23 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[2011 Summer]]></category>

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今回は、前回の [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2011/09/2011summercon.jpg" alt="対談の様子（撮影：服部周平）" title="対談の様子（撮影：服部周平）" width="300" height="200" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">対談の様子（撮影：服部周平）</p></div>
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<p>今回は、前回の対談者である島津翔さんから紹介して頂いたGK設計上田孝明さんからお話を伺いました。<br />
（司会　服部周平／国士舘大学M2）</p>
<p><strong class="black">服部</strong>　まず始めに自己紹介の方から</p>
<p><strong class="orange">安田</strong>　国士舘大学修士1年の安田です。よろしくお願いします。岐阜県大垣市出身です。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>　関西弁出ないね。</p>
<p><strong class="orange">安田</strong>　そうですね、なくなりましたね。もう4年目になります。GSDyに入った経緯とかを話しますと。高校生のときは、こういう土木とか建築とか知らなかったんですけど、広場とかそういうのをぼんやりいいなと感じて、建築学科でないところを探して、たまたま都市ランドスケープという魅力的な名前に引っかかって、大学に入って。二井先生と出会って、そこでいろいろと楽しさを知って大学院に進もうと思いました。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>　上田です。出身は神戸、大学が東京芸大のデザイン科、そして、今はGK設計に勤めています。東京芸大でも建築とは違う、デザイン科というのがあって、そこにいました。デザイン科って言うのがどういうものかというと、ちょっと変わっていて、45人いて、入ったら別に何もしてもいい。デザインという名前がついていたら、グラフィックをやってもいいし、webをやってもいいしパフォーマンスでもいい。僕はプロダクトを志していたので、立体物みたいのを作っていたんですけど、デザインって本人が考えるものであれば、何でもいいという科でした。そこで4年間、何とも言えないものを作り続けて、大学4年のときにGSを知って、景観というものを意識し始めたという、かなり目覚めの遅い人だと思います。働き始めてもう6年ですが、大学の4年の一年間も満たないくらいしか、ちゃんと景観のことは考えてなかったので、人生でも6年か7年くらいしか景観のことは学んでないです。</p>
<h3>カスタマイズできる既製品を</h3>
<p><strong class="orange">安田</strong>　僕が初め、このお話をいただいたときに、上田さんはサインとかをやられていると聞いたので、それで僕は一つ、僕の同期がポールの会社に勤めていることもあって気になっていたことをお聞きしたいです。ストリートファーニチャーのデザインをデザイン事務所で通してやっていくって言うのが流行っていると思うんですけど、それが景観とか土木の分野ですごく、いいことだと捉えています。でも、実際にまちに出てみると、既製品の方が多いですし、会社の方もそういう既製品を売っていきたいという傾向があって、既製品のデザインを良くすることがまちのためにはいいと思っているのですが。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>　既製品が与える影響みたいなものですか。</p>
<p><strong class="orange">安田</strong>　そういうデザインが今後どうなっていくべきかとか。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>　その話は、すこし考えたことがあって。僕自身も、ポールの既製品を作ったことはないんですけど、照明器具の既製品を作ったことがありまして、バブル期から数年くらいは、お金もあったし、開発力が企業にもあったので、いろんな既製品が出回ったんですね。本当に個性のあるものから、今でも使えるような標準的なものまで、いろんなものがあったんですけど、わりと淘汰されて標準的なものばっかりが残っているって僕は思うんですよね。そうしたときに、設計者の方は、そういう既製品を選びたいときになんかつまらないものばかり載っているなと思うんですよね。でも、企業としては、既製品つくるということは金型を作ったりとか、倉庫をもったりとか抱えなければ行けない状況というのがあるので、なかなか難しいっていうのがあって、今、既製品というのは非常に難しいと僕は思っているんですよ。そのときに、じゃあ、お客さん、設計者の方が自由に選べて、メーカーさん、作り手側が抱えても、そんなに痛手を負わないというの何かなというのを考えたときに、例えば、パーツでメーカーさんがつくったものを、設計者が選んでカスタマイズするとか、そういうものがこれからの道じゃないかなと思ったことがありましたね。抱える数は少なくていい、選ぶ方も、自分のより要求するものに合ったものが買える。建築のほうでは、サッシ一つから色々な種類があって、ここでいっても、天井もそうだし、ガラス窓もそうだし、ああいうブラインド、カーテン類なんかもいろいろなものがありますよね。そういう風にボラードで、絞りだしで一つで作れるものもあるんですけど、鋼管と上は鋳物だとかを組み合わせて作っているので、その組み合わせの種類をそれぞれパターンを持っておけば、数種類のものが出来る。メーカーさんとしてもうれしいし、選ぶ側からしても色々選べて、幅があっていいよね。そういう考えも、既製品の話としてはあるかなと思っています。</p>
<p><strong class="orange">安田</strong>　それを聞いて思ったことがあります。既製品で賞をいただいたものなど、すごく洗練されたデザインの防護柵があって、実際それがいいからといって、その場所にそれが合うかというのは別の話になりますけど、確かに、色々なバリエーションを組み合わせるって言うのがあれば、少し変わりますよね。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>　今、いい景観と言われているところのこういうストリートファーニチャーとか小物とかオリジナルでつくられているものが多いと思うんですね。でも、新しく開発された土地であれば、初期投資でつくれたでしょうが、これからはそういった場所がなくなってきてどんどんメンテナンスの時代に入るので、そうなったときにじゃあ、一体オリジナルって何だろうとか考えたら、安価でかつその場所にあったものをつくるっていう既製品じゃないかなと。</p>
<h3>まちなかのかっこいいデザイン</h3>
<p><strong class="black">服部</strong>　デザインをしていて、正直、どうだオレがつくったものかっこいいだろみたいな気持ちってありますか。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>　あります。それはもう誰に言われようが消せなくて。かっこいいだろって言うこと以外にも自分がやったっていう自負みたいなものはないといけないなと思うんですよ。特に、さっきも言ったように、中国の仕事が増えてくると、自分が住んでない、または、あまり行くことができない所に自分のやったものができると考えたらやっぱり、他所の人のために造っているという気持ちがあるんですよね。あまり言っちゃいけないのかもしれないですけど、それはやっぱりなかなか目に触れることもできないし。そうすると逆に自分の近くにおいている物は自分がやったという自負心がどうしても生まれてしまうし、誰かに言いたくなるし、変なものを造った場合には言いたくない。それは、皆さんあんまり面と向かっては言えないかもしれないですけど。自負がないとモチベーションはあがらない。でも、自慢するものかっていうのもあって、結構大変。</p>
<p><strong class="orange">安田</strong>　今の話とも繋がると思うんですけど、例えばサインってまちとして大きい括りとしてみるとすごく小さいもので、目的としては見に来た人に情報を伝えるもので、それに形がついてくるわけで。それはかっこよくて、まちにとってあんまり気にならないものであるべきと思うんですけど、そういうストリートファーニチャーのかっこいいとかどういう風に考えるべきなんでしょうか。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>　必ずしも、かっこいいっていう意味が単体を取り上げて、家に持って帰りたいかっこいいではなくて、スタンス。つくられたもののスタンスみたいなものがあると思うんですけど、すごく馴染んでいて、気にも止めなかったくらいその場に合っているものがかっこいいと思うんですよ。たぶんそれってものだけを取り上げても何の変哲のもない、その辺のおばちゃんに聞いたら別に何もかっこいいものではないものだと思うんですけど、その場所にサインやストリートファーニチャーがあって、意識しないくらいフィットしているっていうのがすごくしびれますよね。大人。分かってるやんみたいな。フィットした感じっていうのは、ヨーロッパなんか行くと感じることが多いですよね。玄人目で見てしまうことがあるんですけど、あったことも忘れるくらい自然な佇まいでそこにあって、でもよく見るとちゃんとした人がデザインしたなっていうのがわかるんですよ。それが一番かっこいいなっていうのを最近感じています。主張しすぎないけどフィットしていて、かつ、よく出来ている。</p>
<h3>まちづくりのふたつの側面</h3>
<p><strong class="orange">安田</strong>　僕、今、うちの研究室の授業で、200坪の小さい場所を与えられてなにか変えていこうって言う設計演習があるんですけど、なるべくものをつくらなくていい時代になってきている中で、少ない土地とか、何もつくらない何かっていう状況がこれから必要になってくると。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>　たぶん、そう。僕もね、自分の中ですっきりしきれていないところもあって、今言われている、つくらなくても人と人との交流でいい場所が出来上がるって場所は、あくまでハードとしての場所があったりだとかの上に立っているものだから、ものをつくることが今この段階で必要ないって言われるんですけど、つくり直さなければならない時期がくると思うんですよね。ものをつくるっていうことは忘れちゃいけないなって実はずっと思っているんだけど、もの自体で何かを解決できると思っていた時代はちょっと終わりつつあるのかなっていうのがさっきの話。でも、ものはものでちゃんとつくらないといけない。<br />
山崎亮さんもこの前のGS24で、コミュニティって簡単に言うけど、それだけじゃ成り立たないんだよって話をしていただいて、あの話もすごく感銘を受けました。西村浩さんと対談していたときに、ものをつくるってことと人を動かす二つの側面がまちづくりにはあって、それぞれの職能が必要だっていうことと、一人でやるにはあまりにも膨大だっていうことで、自分が何ができるかってことは見極めながらやらないといけない。何もかも出来る。コミュニティで何もかも解決できると思うと大間違いだから、気をつけた方がいいって言う話をたぶん彼はしていたと思います。コミュニティで自分が実際、何か解決できるのかっていったら、知らない人と話をするハードルがまずあって、そこの人たちがどういう生活していたかっていうことをやっぱり知らないといけないっていうことがある。すごく難しいけど意義があることで本当に今考えるべきことだなって思うんですけど、たぶん答えが出ない。自分がもし公園をつくるってなったときに、じゃあ何もつくらないでおこう、っていうのはたぶんないと思うんですよ。何をつくるかっていうのは価値みたいなものであって、その場所でどういう活動をするかいうビジョンがちゃんとあれば僕はものをつくってもいいし、ものをつくらないと意味がない。もので解決できない場所の問題をコミュニティだとか、人と人との関係を変えることとか、価値を新しく見出すことにとかで解決することもあるけど、それだけじゃない。両輪でやらなければならない。</p>
<p><strong class="black">服部</strong>　たぶん、うちの学生が相当聞き耳立てて設計演習に活かそうとしている。(笑)</p>
<h3>まちづくりはサービス</h3>
<p><strong class="orange">安田</strong>　僕が生まれたのは20年くらい前で、そんなに変わらないと思うんですけど。自分のまちを好きっていうかそういう感覚って今ない。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>　確かに。</p>
<p><strong class="orange">安田</strong>　僕は今まで、無理やり好きって思っていたのかもしれない。この前、いろいろな方と呑む機会があってそこで話したのは、まちが好きってなんだって話になって。そこに住んでいる人はそこに住むべくして住んでいるんであって自分のまちが好きって言うのはなかなか難しいんじゃないかって。もちろん友達がいるから好きっていうのがあると思うんですけど。だから、今まで地元が好きって言ってはきたんですけど、何が好きっていうとちょっと難しくて、実際、愛着はそんなに湧いてないんじゃないかなって。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>　大学入る直前までは、岐阜にいたんでしたっけ。</p>
<p><strong class="orange">安田</strong>　はい。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>　僕も実は、神戸に12年と、芦屋に6年住んでたので、一番長くても12年しか一カ所には住んでいないんですけど、どっちも神戸市と芦屋市って兵庫県の中なんで、大きく兵庫っていうのが自分の生まれ育った場所で、今、安田さんがおっしゃったみたいに好きかっていうと友達がいるから、それも含めて自分のまちが好きって思っているのか、やっぱりあの景色が好きだって言うのもあるけど、本当に好きかっていうとうまく説明できない。生まれたときそこにいたから好きって言うしかないやんみたいなのも確かになくはない。でも、それでいいんじゃないかな。友達でもどうしようもないけど、なんか好きやみたいなので、欠陥も含めてそこを好きっていうか、生まれたところがそこだから好きになるしかないっていうのもあっていいかなって今、思いましたね。人間の素朴な真実だとは思うけど。</p>
<p><strong class="orange">安田</strong>　それで、まちを好きになって自分たちで何か変えていこうとか、そういう気持ちにさせていくつくりかたは、どういうのがあるのかなって考えちゃいますね。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>　僕の感想というか意見だと、ファンクラブみたいのがあって、渋谷ファンとか、岐阜ファンとか、それがその場所に住んでいたかって言うのは関係なくて、そこに買い物に行ったり遊びにいったりすることが好きでこのまちが好きだって言うのもありだし、住んでいたから愛着が湧いて好きなんだっていうのもあって、彼らがどうしたいかっていうのを大事にすれば、たぶんできるんじゃないかな。設計者一人でやろうと思ったらたぶん出来ない。いつも自分の仕事しながら思っていることは、あくまでデザインも設計もサービス業で、万博だったら、運営する人と、そこに来る人がクライアントさんと考えていて、彼らが、万博に来たときに、スムーズに行動を促すサポートをするとかっていうのが、僕のサービスだと思っています。さっきの話で何もない場所を与えられて、そこに何もつくらないけど、価値をつくらなければならないって時に、たぶん、誰に対してつくるかっていうのを考えないと何も動かない。それがそこに住んでいた人なのか、もしくは、外から人を連れてくるかで全然違っていて。新しい価値をつくるとなったら、その場所を読み解いて、新しいものを呼んでくるということについて色々考えないと行けない。難しいけどおもしろいですよね。何を提供するか。たぶん僕らは、つくっている対象っていうのはハードによりがちですけど、そうではなくて、価値とかサービスであると広く考えれば、コミュニティの話もあると思います。ここにいて、心地いいっていうのも十分なサービスの提供の結果だと思うし、意識されなくても、馴染んでいるっていうのも、一つのサービスだと思うんですよね。違和感がなく調和しているって言うのは結構難しいことで、その場所に合うのを幾多の選択肢の中からそこに選んで、フィットさせるのは結構な技量がいて、そういう場所をつくれたって言うのもひとつ、すばらしいもんだなって思うので。場所をつくるっていうのは本当にいろんな考えかたがあるなと。おもしろいけど、難しいですよね。</p>
<p><strong class="black">服部</strong>　最後に安田君にアドバイスを。</p>
<p><strong class="green">上田</strong>　今のままでいいと思います。僕もそうなんですけど、悩み続けること。悩むことをやめると一番良くないなと思うので。これはオレに関係ないとか、これはたぶん違う分野だとか。できるだけいろいろな人と、全然年齢も関係なく、本当はいろいろな人と話をしたらいいっていうのがあって、いろいろな人と接することは、やめちゃいけないと思っているので、ありのままで、進み続けてほしいなと今日は思いました。</p>
<p><strong class="orange">安田</strong>　ありがとうございます。</p>
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		<title>食から見たフランス。マルシェ、ワイン、地方都市</title>
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		<pubDate>Sun, 02 Oct 2011 06:49:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[僕らがパリにきて１０カ月が過ぎた。１年半の留学の折り返しも過ぎたところで、ここで少し変わった視点から都市を考えてみたいと思う。
エッフェル塔、凱旋門、セーヌ川etc&#8230;モニュメント、軸線構造、オースマン計画とパ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>僕らがパリにきて１０カ月が過ぎた。１年半の留学の折り返しも過ぎたところで、ここで少し変わった視点から都市を考えてみたいと思う。<br />
エッフェル塔、凱旋門、セーヌ川etc&#8230;モニュメント、軸線構造、オースマン計画とパリには都市それ自体として語るべきものは沢山あるが、今回はもっと小さな世界からパリを覗いてみよう。パリがパリたる由縁は、その歴史・観光名所だけではない。フランスはご飯もとても美味しいのだ。レストランで外れを引く方が困難である。残念ながら海を挟んだロンドンではこうはいかない。ビックベンがあろうと、テムズ川があろうと、食事の時にテンションは下がる。パリは違う。観光をして、カフェで喋り、ご飯を食べることによって、その印象はより良くなることが多い。世界一の観光名所は美食という強力なバックアップがあってこそなのであろう。そんな食と美しい風景を通じて、２つの議論を投げかけてみたい。<br />
日曜日の朝、小さな広場に賑わいが生まれていることがある。多くのフランスの都市では土日にマルシェ（＝市場）が立つのだ。市場、といっても日本の築地のように常設でプロ向けのものではなく、小さなテントで野菜やチーズ、魚や肉が売っているものだ。立地と様子はフリーマーケットのようだが、雰囲気としては、日本の小さな町の商店街に近い。フランスという国は休日を大事にするので、日曜日はお店やスーパーなど閉店というところが未だに多い。そんな中、休日のマルシェは野菜や魚、チーズやお肉、などの素材を買ういい機会なのだろう。ここで一歩踏み込んで考えてみると少し奇妙な事に気がつく。</p>
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2011/09/fr1.jpg" alt="パリのある日の市場の風景。野菜はもちろん、魚、チーズ等が売られ、地元の人や観光客も食材を吟味する。（2011:中野撮影）" title="パリのある日の市場の風景。野菜はもちろん、魚、チーズ等が売られ、地元の人や観光客も食材を吟味する。（2011:中野撮影）" width="300" height="200" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">パリのある日の市場の風景。野菜はもちろん、魚、チーズ等が売られ、地元の人や観光客も食材を吟味する。（2011:中野撮影）</p></div>
<h3>大型スーパー大国フランス</h3>
<p>意外かもしれないが、フランスという国は大型スーパーが非常に有名である。日本は郊外といえばイオン、というくらいイオンが立ち並んでいるが、フランスでもちょっと郊外、いやパリの端部にまでさえ出れば、日本でも有名なCarrefourを筆頭に、Auchan,Casino,Champion,InterMarcheといった超大型スーパーがひしめきあっている。これに加えてMonoprix,Franprix,SuperUなどの都市型の中型スーパーもあるのだ。郊外のスーパーの展開の事例は都市計画史の授業でも出てくるくらいである。</p>
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2011/09/fr2.jpg" alt="フランスの代表的なスーパーの一つ、Monoprix（2011:中野撮影）" title="フランスの代表的なスーパーの一つ、Monoprix（2011:中野撮影）" width="300" height="200" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">フランスの代表的なスーパーの一つ、Monoprix（2011:中野撮影）</p></div>
<p>巨大な敷地、大きな駐車場を兼ね揃えたこれらのスーパーは大量生産によるコストダウンと敷地を武器に食糧、衣類、電化製品など何でも手に入る便利さを持っている。そこには映画で見るアメリカのスーパーの世界が展開されている。他の家族の買う量が多いものだから僕らのような１人暮らしの学生が数日分の食材を持って並ぶだけなのに、随分待たされたりする。皆一週間分の食材をまとめて買うのだろう。<br />
ここに、一つの疑問が浮かんでくる。これだけ大型スーパーが立ち並び、全てが安く揃う社会で、なぜ細々と小さく分かれて、必ずしも安いわけではないマルシェがパリに存在し続けられるのだろうか？大型スーパーブームは今に始まったものではない。日本では、コンビニやスーパーの進出で近所の八百屋、魚屋、肉屋がことごとく潰れていっているというのに、この差はなんなのだろうか。私事だが、川崎にある筆者の実家の近くの小さな商店街も、スーパーの横にありながら上手い具合にバランスを取っていた。みんなスーパーをベースにしながらも肉、魚などは商店街で買っていたものである。それが、コンビニが一つできたことをきっかけにここ１０年で次々とシャッターが下りていった。魚屋も肉屋も八百屋も米屋もみんな潰れてしまった。<br />
どうして、ここまで差が生まれるのだろうか？日曜日に開いているからだろうか。しかし、最近は日曜日に開いているスーパーも増えてきた。それでもわざわざマルシェに行くだろうか？この事態、“パリだから”というその魅力的な一言で片づけてしまえるだろうか？</p>
<h3>鮮度に対する敏感性</h3>
<p>これに対する僕らの試論は、彼等は鮮度（≒味）に対して非常に敏感なのではないだろうか、ということである。早い話が、食に対するこだわりが強い、美味いものを食べたいという思いが強いのだろうということである。大型スーパーの野菜は、なるほど大量生産のせいもあって、日が経って傷んでいるものやそもそも質や見た目が悪いものも多い。消費型世界の中ではそれで廃棄があっても利益は出るのでこのような風景が成り立ってしまうのだろう。一方マルシェは規模は小さいが鮮度は高い。<br />
次のようなパン屋での風景もまた、フランスを代表するものである。平日の夕方、パリの中心からちょっと離れた小さなパン屋で、その日の夕食用焼きたてのバゲットを買おうと並んでいる人達を目にすることができる。フランスの焼きたてのバゲットは、それはもう抜群に美味い。買って暖かいうちに歩きながら食べ始めてしまうのがフランス人スタイルである。要するに、ほぼ毎日のようにバゲットはパン屋で買っているのだ。スーパーで一週間分をまとめて買わずに、手間をかけてでも美味しいパンを毎日きちんと食べる。<br />
美味い物を、美味いうちに食べる。この、鮮度と味覚に対するピュアな敏感性こそが巨大スーパーの力をも超える力を発揮しているのではないだろうか。<br />
そして、食に対するこだわりは、休日の朝に小さな賑わいのある風景を生み出す。こうした、マルシェのある風景は何もマルシェという賑わいを作っているだけではない。その奥まで目を向ければ、小さな地方の美しい田園風景に辿り着く。鮮度に対するこだわりは、直接は目で見えない美しい農村風景を活気づけることにもつながっているのだろう。</p>
<h3>対して日本の食意識と風景</h3>
<p>しかし日本も、負けじとグルメの国ではないか。この国に一年近く住んで改めて思う。日本の食に対するこだわりも本来相当なものである。実際、各地域の特産料理、鮮度を活かした料理。どこにいっても舌鼓を打つような食がある。それに、美食の国フランスでも日本料理は大流行りなのである。余りに人気でベトナム・中国人経営のフェイク日本料理が乱立するほどだ。<br />
それだけグルメな国、日本では、何故かくもあっさりと商店街は廃れてしまったのだろうか？いつの間にか、僕らの食への関心は、もしかすると無くなってしまったのではなかろうか。旅行に行って美味いものを食べるという感性は日本人とてまだ失われていないであろう。失われてしまった、或いは忘れてしまったのは、寧ろ日常における鮮度への敏感性ではないだろうか。<br />
乱暴な議論を承知で言わせてもらえば、こうした僕らの食、鮮度へのこだわりへの無意識の低下は、小さな商店街と、その後ろにある農村風景を知らず知らずに潰してしまう手助けをしてしまったのではないだろうか。<br />
地産地消が叫ばれ、道の駅などでの直売などの取り組みは行われているが、街の小さな八百屋達は苦しむ一方である。鮮度から考えて、小さな商店街を、果てはその奥に待つ農村風景を果たして日本は救うことができるだろうか？そして、敏感性を取り戻した先にはマルシェのような賑わいを取り戻す日は来るのだろうか？これが僕等からの一つ目の議論である。</p>
<h3>フランスワインの原点：テロワール </h3>
<p>さて、もうひとつの話題に移ろう。マルシェで売っていることは稀ではあるが、ワイン抜きでフランスを語ることはできまい。美味い飯には美味い酒がつきものである。一年近く経っても、メニューに載るワインの数の多さに圧倒されて何を頼んでいいのやらわからない日々が続いているが、こちらのワインというのは地域ごとに別れているのが普通である。赤ならボルドー、ローヌ、ブルゴーニュといった具合に。このワイン、調べてみるとなかなか面白い世界が広がっているのだ。<br />
実はフランスのワイン生産量は必ずしもヨーロッパ一というわけではない。ワインの原料となるブドウの生産量にしてもイタリアに劣っている。しかし、フランスのワインの地位は、誰もがこの国の食の代表として挙げるほどに確立されているだろう。なぜフランスのワインがこれほどまでに確固とした地位を世界に築いているかというと、その品質を保証するフランス国内での制度、あるいは生産方法の規制にあると言っていいだろう。</p>
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2011/09/fr3.jpg" alt="コニャック地方におけるブドウ畑。こうした風景がフランスの田舎には到る所で広がっている。（2004:河野撮影）" title="コニャック地方におけるブドウ畑。こうした風景がフランスの田舎には到る所で広がっている。（2004:河野撮影）" width="300" height="200" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">コニャック地方におけるブドウ畑。こうした風景がフランスの田舎には到る所で広がっている。（2004:河野撮影）</p></div>
<p>テロワール(フランス語ではterroir)という考え方がある。これはブドウ栽培に関わる自然環境、すなわち気候、地勢、土壌、地質等の総体として定義されるものだ。かつては、土壌組成にブドウの品質が依存するという考えに重きが置かれていた。しかしブドウ栽培に関する研究が進むにつれて、それだけでは品質の良し悪しが説明できないことが解明され、このような概念が現れた。ワインの良し悪しはテロワールを構成する一要素だけでは語れず、その総体が最終的にワインの品質を決めるということである。<br />
元々この概念は、中世のブルゴーニュの修道士が土を舐めて畑を区割りしたということに由来する。すなわちワイン、ひいてはブドウの品質はあぜ道一つ隔てただけの環境の違いで変わるという経験則が、この考えを生み出したのである。フランス人の食に関わる感性がこういう所にも見られるのではないだろうか。<br />
このテロワールという考えが、ワインの原産地制度の基礎になっている。すなわち各ワインは、土壌、気候等の条件の異なるその地域固有ものであり、土地の個性を示すものだということだ。<br />
ここで面白いのが、このテロワールという考えに基づいたフランスでは、土壌改良の方法が制限されているということだ。例えば、一般的に農業で行われている、別の土地から肥えた土を運んでくる客土は元々あった土地の個性を破壊するものだとして禁止されている。また水分量の調節ということでは、レインカットと呼ばれる、雨水の浸透を防ぐための覆いを地面或いはブドウ樹へ掛ける手法も禁止されている。さらには、一般に降水量が確保されているフランスでは、灌漑も禁止、または許可制になっている（ただし、どうも排水工事だけは認められているようである。これも土地の個性を犠牲にしている気もするのだが、多量の雨水はブドウの栽培自体を阻害するものなので、それを防ぐためということであろう）。言われてみれば、フランス国内では日本の田舎で度々見られるようなビニールハウスの風景はあまり見られない。<br />
このような背景の下で作られたワインのうち、検査を通過したものだけが、その産地の名前を冠することを許される。ワインのボトル上の« Appellation 原産地　Contrôlée »　というラベルは、この制度の規定をクリアした証である。</p>
<div id="attachment_290" class="wp-caption aligncenter" style="width: 310px"><img src="http://www.gsdy.org/letterpremium/cms/wp-content/uploads/2011/09/fr4.jpg" alt="フランスワインのラベル例。CHABLISという地名の下に原産地制度の基準をクリアした証が記されている。（2011:中野撮影）" title="フランスワインのラベル例。CHABLISという地名の下に原産地制度の基準をクリアした証が記されている。（2011:中野撮影）" width="300" height="200" class="size-medium wp-image-290" /><p class="wp-caption-text">フランスワインのラベル例。CHABLISという地名の下に原産地制度の基準をクリアした証が記されている。（2011:中野撮影）</p></div>
<h3>テロワール、そしてまちづくりへ</h3>
<p>このテロワールという考えに基づいた原産地制度、よくよく考えてみると近年の日本のまちづくりの在り方に何やら通ずるものがありそうである。日本のまちづくりでは、地域固有のものを重要視する傾向にある。その街の固有性は、建築物や構造物といったインフラだけではなく、街ならではの祭りや行事といったソフトなものまで幅広い要素が絡みあって形成される。行政を中心とした街という名のワインの生産者は、その数ある条件、テロワールの中で、格闘しながらそのアイデンティティを見出だそうとしているのである。<br />
対して本家のフランスのまちづくりはどうか。ワインと同じく、地域性を重視しているかというと、実はそうでもない。いや、かつてはそうだったのかもしれない。元々フランスという国はパリという絶対権力の下に地方都市がつながるという中央集権構造の代名詞だった。それが、82年に地方分権法ができてから、地方都市はそれぞれの自治の下、独自に発展を遂げていけることになった。ところが、近年のグローバリゼーションはこの流れを再びかつての中央集権型に戻してしまう。フランスの各都市はヨーロッパ国内ひいては世界との競争力に打ち勝つために、地方が地方だけで留まるやり方を禁じられてしまった。この時期、主に経済的な面での発展を目指して、クラスターと言う概念が出てきた。これは、地域内の大学や研究所などの知的部門が企業と連携を通して、産業の活性化につなげようというものであり、この動きは、地域内に階層構造を作る。つまり、小さい地方都市は各地域の中心にある強い地方都市をバックアップする体制を強いられる。<br />
その最たるものがGrand Paris計画という一大プロジェクトである。これは、サルコジ大統領が2007年に発表したパリの都市拡大計画であり、パリを中心とした巨大圏域の創造ともいえる。これまで脆弱だったパリ郊外部の鉄道網の整備を軸に、グローバリゼーションの中、ヨーロッパでの地位を確保し世界でも有数の競争力を持った都市を目指した壮大な計画である。この計画の良し悪しには議論の余地が大いにあるとはいえ、いずれにせよここにはテロワールのような地域性を重視した発想は見られない。実際、パリの周辺地域では、マスタープランの中に「パリとの連携を強くし、国際競争力をつける」といった内容が明記されている。</p>
<h3>日本の地方都市の向かう道</h3>
<p>ワインのテロワールに基づく原産地制度の考え方は、ある意味その地域以外の外部環境を排除し、その地域の持つ総合的な地力を持って個性を生み出し守っていこうとする考え方である。フランスで現在行われている都市計画の考え方は、他の地域の良い土壌をこちらに移してでも、より良質のワインを作ろうとしている事に近い。この場合には、地域性という個性よりもワインそのものの絶対的な質の向上（消費者の好みの差は少なからずあるにしても）が重要なのである。<br />
これが、グローバリゼーションの中で、さらにはヨーロッパという大陸での競争社会の中で生き抜くためにフランスが出した答えなのである。<br />
地方での独自性を貫いていたら、いつまでもヨーロッパでの覇権は獲れない。そればかりか、このままでは５０年後にはパリという都市はグローバル社会の中では霞んでしまう。だから、強引に舵を切りなおしたというわけだ。<br />
では、今日本はどうするか？グローバリゼーションの中でなお、テロワールを進めたとしても、国ごと沈没したら収穫は殆ど望めないだろう。勿論、今後このグローバリゼーションが進み続けるかはわからない。日本の地方都市はこの先どのように舵を取っていくべきなのだろうか？<br />
これが僕達の２つ目の議論である。<br />
多少荒っぽい話ではあったが、フランスよりお届けしたこの文章が皆さんの議論の種となれば幸いである。Allez, Bonne discussion!（良い議論をしようじゃないか！）</p>
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